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【PODCAST書き起こし】「講談的なる落語」とは?和田尚久さんに三浦知之が聴いてみる(全4回)(その2)


【タイトル】TFC LAB PRESENTS! 集まれ! 伝統芸能部!!

【三浦】よく「講談は地の語りでずっともっていって、落語は会話で」って言うじゃないですか。でも講談もやっぱり、例えば「吉田の焼き討ち」の2人の登場人物の会話であるとか、あと途中で出てくる、おじいさん・おばあさんの会話とかっていうのは、別に講談でも会話でやられるわけですよね?

【和田】まあ、もちろんそうです。だからそれはね、講談と落語の違いってなったときに、私このちくまの本に結構書いたんだけれども。一番よくある語られ方は「会話で運ぶのが落語、地の語りで運ぶのが講談。こういうふうに、違い語り分けたらこうなりますよ」とかって芸人さんが言ったりするんだけど、それは僕に言わせれば本質的な違いではなくて。なぜかと言うと、じゃあ落語のですね、何でもいいけど、例えば「道灌」だろうが「まんじゅうこわい」だろうが、地の語りで進めることだってできるわけですよ。

【三浦】なるほど。

【和田】全編、地の語りで、「そのあとまんじゅう屋に行って何とかで、何なにまんじゅうを買って参りまして何とか」って言えば、別に地の語りになるじゃないですか。

【三浦】そうですね。

【和田】で、講談も今おっしゃったように「慶安太平記」であろうが何であろうが、地の語りをカットして「おい、雨が降ってきたね、何とかで」って言って。「今日はずいぶん凍えるじゃねえか」とか言って、地の語り全部カットして会話でつなげばそうなるわけで、それは本質の違いでは僕はないと思っているんですよね。でもざっくり言ってしまうと、形式としてはそうなんですけれども。

【三浦】まあ分かりやすい説明するとしたら、それが一番いいんだろうなくらいなことですかね。

【和田】そうです。
で、談志師匠が自分の本に書いていらしたのは、「講談と落語っていうのは世界観が違うんだ」と。で、何が違うかって言うと、まあ談志師匠の説明いわくね「講談っていうのは『忠臣蔵』の物語があったときに、艱難辛苦を越えて討ち入りに参加する四十七人を描いたのが講談である」と。「そこの、これこれこういう大変なことがあったけれども、主君のあだを討ちましたとかね、それを描くのが講談である。だけど、赤穂の浪士たちっていうのは、ほんとは何百人もいたわけで、逃げちゃったやつがいる。途中までやろうと思ってたけど、なんとなくいやになって途中でやめちゃったやつがいる。あるいは、もうバカバカしくなって、もうお酒飲んで寝ちゃったやつがいる。そういうやつもいたはずだ」と。実際いた。「そっちを描くのが落語だ」と言ってるんです。

【三浦】なるほど。

【和田】「だから、その討ち入りの話を落語は描かないんだ」と。「それを挫折しちゃったやつとか、やめたって言ってどっか消えちゃったやつとか、そっちを描くのが落語なんだ」っていうことを談志師匠はおっしゃってた。その世界観だっていうふうに。

【三浦】その世界観で、例えば具体的にそういう、やめちゃった人を描いた落語ってあるんですか?

【和田】いや、ないです。

【三浦】要は世界観っていう意味でってことですよね?

【和田】例え例え。だからダメなやつを、人間のダメなほうにピントをしぼって。

【三浦】もう徹頭徹尾、主君への忠義を貫いて大願果たしました! っていうのが落語じゃないってことですよね。

【和田】落語じゃない。そういう話をつくっちゃったら、それは落語じゃない。おかしいだろと。

【三浦】それは落語じゃないと。じゃなくて、もう俺いやだなと、もうこんなことやってられないな、お酒飲んで寝ちゃいたいなっていうのが落語。

【和田】そう。

【三浦】ああ、いいですね。

【和田】だから僕がいつも思うのは、談志師匠がそう言ってるわけじゃないんだけど、落語で「猫の災難」っていう話があって。

【三浦】ああ、ありますね。

【和田】あの話って、要するにお酒があるわけですよ。今日もらってきたお酒があるから、これこれから飲もうという話になるわけです。で、友達と2人でいるんだけど、でもなんかちょっとおつまみみたいなのが欲しいなと。お酒も最初買ってくるんだけどね。で、「じゃあちょっと買ってくるよ」って言って。「さかな買ってくるわ」って言って、行くわけですよ。で、片っぽが出かけちゃうわけ。すると、その出かけてる30分くらいの間に我慢できなくて飲んじゃうわけですよ。

【三浦】まあ落語によくある、ありがちな話ですよね。

【和田】そう。で、これは僕、ほんとにザ・落語って感じがするんですよ。

【三浦】ですね。

【和田】待ってりゃいいじゃんって思うんだけど、その待ってる間すらも我慢できないで、ちょっとだけ飲んじゃっていいからっていって飲んじゃって、酔っ払っちゃって。で、友だち帰ってくるわけですよ。そうすると「いや、なんか猫がそこのとっくりをひっくり返しちゃってさ」みたいな、わけの分かんない言いわけして、ちょっとこぼれちゃったんでみたいな感じで、もうひどいじゃないですか。

【三浦】ひどいですね。

【和田】だけど、これはほんと落語の価値観だなと僕は思っていて。なんかその我慢もきかないし、適当な言いわけをする、友だちのこともある意味で裏切る。

【三浦】でも自分としては我慢できなかったと。酒が飲みたくてしょうがないと。その精神構造ですね、やっぱね。

【和田】そうです、そうです。だからそれはよく談志的に合致するかなと思うんだけど。

【三浦】いいですね。

【和田】で、僕がね、この本に書いたのは、その今言った「忠臣蔵」の例えとはまた違ってというか、まあちょっと別の角度で書いたんですけれども、落語と講談は何が違うかって言うと、語りの時制が違うんです。

【三浦】ああ、時制? 時制っていうと、時?

【和田】時制っていうのは何かって言うとですね、講談っていうのは基本的に、例えば今で言うと大河ドラマと一緒で、過去にもうすでに完了している出来事。過去において完了してる、完結した出来事を今語り直すのが講談なんです。

【三浦】ああ、なるほど。

【和田】ですから講談っていうのは、必ずうそであっても「慶安何年に由井正雪とその一統が」っていう話になったりとか、それから「寛政何年のころに評判をとった大関の何なにのみや右衛門がおりまして」っていうふうに言うわけです。だから、時間をダミーであっても言うわけ。

【三浦】まあ実際にあったことのように。まあ、こういうことがありましたと。

【和田】そうです。まあ基本、実際あったものが多いんだけれども、それがあいまいなものであっても、時と時間を決めちゃうわけです。で、これは過去に完了している出来事ですと。それをそのテキストを今、語りますと。だから講談っていうのは「読みます」ってね。

【三浦】そうですね。読むって言いますね。

【和田】読むって言いますでしょ? あれはだから、その全部が完了した出来事をですね、高いところから、つまり出来事そのものよりも高いレイヤーから見てる。視点が。

【三浦】ああ、ちょっと俯瞰してるっていう。

【和田】俯瞰してるんです。だから、そのエンディングまでもうそこまで含まれちゃってるわけ。だから僕、非常に面白いと思うのは、今の伯山なんかでもほかの講釈の人でも言うんだけれども、例えばですね、「畦倉重四郎」っていう話をやるときに、これは人殺しの大悪人を主人公にした話なんですけれど、そのまくらっていうかもう入るところに「昔、名奉行と言われました大岡越前守忠相が自分が裁いたうちで憎みても余りあると言った人物が3人おります」と。で、「誰と天一坊と、3人目が畦倉重四郎です」と。「その御物語を申し上げます」って言って始まるわけです。

【三浦】そうですね。言ってますね、必ず。

【和田】っていうことは、この語りそのものは、もう大岡様の裁いたあとの出来事なんですよ。

【三浦】終わってるよと。

【和田】終わってるんです。

【三浦】解決済み。

【和田】解決済み。で、大岡様が自分の生涯を振り返って「この3人は自分が裁いた中でほんと悪人だったな」って言ったやつがいると。その1人のエピソードをこれから聴いていただきますよっていうことだから、もう時制が全部が終わったあとの話なわけですよ。

で、落語の滑稽話っていうのはこれと逆で、これを絶対にやっちゃいけないんです。これを絶対にやっちゃいけないんです。例えば「そば屋の一文をごまかすというお話を申し上げます」って言って「時そば」に入っちゃいけないわけですよ。

【三浦】さげ、いけないですもんね。それだったらね。

【和田】そうです、そうです。「まんじゅうが嫌いだと偽りを言った男の物語でございます」って言って「まんじゅうこわい」に入るのはおかしいじゃないですか。この場合は。

【三浦】おかしいですね。

【和田】だから落語の中に流れる時間っていうのは、まあここの本に書いたんだけど、僕は「流れるプール式」って言ってるんですけど。

【三浦】「流れるプール式」あ、こうずっと戻ってくるわけですね。

【和田】同じところをぐるぐる回ってる。

【三浦】無限ループ。

【和田】それはだから慶安何年、寛政何年とかね、明治5年のことでございましたとか、そういうのとは無縁なんです。それを言っちゃいけないわけです。基本的に。

【三浦】時をあいまいにしておくってことですよね。いつの時代だか分からないように。分からなくていいってことですよね。

【和田】そうです。わざと分からなくしてる。で、これをね、今の人に分かりやすく言うと、ギャグ漫画がそうなってるんです。

【三浦】ああ、なるほど。

【和田】ギャグ漫画っていうのは、例えば……。

【三浦】主人公、年とらないですもんね。

【和田】そうです。そういうことです。だから「ドラえもん」っていうのは、春になると例えばお花見に行きましたと。お花見の行った先で、こんなことでおにぎりが転がっちゃいましたっていう話があるわけですよ。夏になると、みんなスネ夫くんがプールにハワイに行きましたっていって、俺も海で泳ぎたいなとかいって、ドラえもん何とかしてよみたいな話をやるわけですよ。だから、そういう意味で時間は絡むんだけど。

【三浦】まあ季節は経つけども。

【和田】季節は経つけど流れるプールだから……。

【三浦】また春になったら戻ってくると。

【和田】春になったら戻っちゃうんです。

【三浦】花見に戻ってくると。

【和田】戻っちゃうんです。そこで、じゃあ、のび太が今日から中学生ですねというふうにはならないわけです。

【三浦】ならないですね。ならない。別にそれは江戸でも昭和でも平成でも、いつでもいいってことですよね。

【和田】そういうことです。だから落語の中の時間っていうのは、そういうふうにぐるぐる同じところを回ってる。
あと例えばアニメで言うと、「トムとジェリー」とかね。ああいうのってあるじゃないですか。ほんとは「トムとジェリー」っていうのは全部で150話くらいオリジナルのがあるんだけど、ちゃんとした歴史の物語、さっきの慶安みたいに1話2話3話4話5話っていうふうに進んでいく話っていうのは、焼け討ちのあとに増上寺の話聴くのは変でしょ?

【三浦】変です、変です。

【和田】だって増上寺のエピソードのあとに焼き討ちがあるわけだから、その順で聴かないとおかしいですよね。ということは、時間が一直線に流れてるわけです。だけど、例えば「トムとジェリー」っていうのは、100話目のあとに2話目を観て、その次に30話目を観ても、別に平気なんです。

【三浦】何の違和感もないですね。

【和田】違和感もないし分かんないしね。それはなぜかっていうと、その中に貫かれた時間がないから。

【三浦】そうですね。赤塚不二夫の「おそ松くん」とかいまだに読むんですけど、どこ読んでも別に大丈夫ですもんね。

【和田】いいでしょ? だから「おそ松くん」っていうのは、10巻目のあとに3巻目読んだっていいわけじゃないですか。

【三浦】ええ、全然。それが楽しいですね。

【和田】逆に言うと今の、例えば「鬼滅の刃」とかはさ。

【三浦】そうですね。時間を追って読まないと。

【和田】1、2、3、4、5って読むべきものですよね。だから、それが講談と落語の違いで、時制が違うと私は思う。

【三浦】まさに。おっしゃる通りだと思いますね。

【和田】で、さっき言った「講談が地の語りで進めていく」っていうのは、そこに戻りますとね、過去に完了した出来事を高いところから、もうつまり終わったあとですね。遥かあとから見てる場合ですね、例えば今、我々が第二次大戦の物語を見たときにですね、「これ日本っていろいろあがいてるけど、20年8月に負けるよね」とか、「この町にいるけど、この2日後に空襲があるんだよね」とかっていうのは、全部分かった時点から見ているわけじゃないですか。

【三浦】そうですね、事実として分かりますよね。

【和田】それが講釈とか、まあ浄瑠璃も同じなんだけど、そういう視点で。それをやるときに、地の語りで、つまり天の声ですね。天の声で語るのが一番ピッタリくるんですよ。

【三浦】そこに実際に出てきている人たちの会話で進めるより、それを見ている客観的な目で話したほうが分かりやすいっていう。ふかんした。

【和田】そう。だから、上からのカメラっていうことですよね。で、登場人物の会話で進めるってことは、その登場人物目線のカメラで進めるっていうことなので。だから、それを逆のかたちで証明するのが、落語の中にですね、地噺っていう、地の語りで進める落語があるんですけれど。例えば「紀州」とかね。

【三浦】「紀州」?

【和田】あと「目黒のさんま」とか。

【三浦】「紀州」? 聴いたことないな。

【和田】あと「お血脈」って。

【三浦】「お血脈」。分かります。

【和田】分かります? 善光寺の。「お血脈」のね。落語の地噺っていうのは、落語にしては例外的に熊さん・八っつぁんよりは古い時代を描いているんです。それはだから、今の僕が言ったことの逆の証明なんですね。地で進めるってことは、古い時代を舞台にしたほうがいいんですよ。

【三浦】なるほど。

【和田】だから、善光寺の由来なんていうのは、あれは一応7世紀くらいの、善光寺ができたときの話なんで、すごい古い時代なんです。

【三浦】「お血脈」って、そんな時代の話ってことなんですね。

【和田】そう。でも、そう感じないでしょ? 

【三浦】そうですね。「お血脈」って、あんまり聴いたことないですけど。

【和田】そう感じないんだけど、でも一応、理屈としてはそうなんですよ。善光寺ができたときのエピソードなんで。
それから「紀州」っていうのも、徳川のあれは……紀州公になるときだから。

【三浦】ああ、吉宗。

【和田】吉宗がなるときの話なんですよ。それも江戸中期だから、熊さん・八っつぁんの「まんじゅう食べました」とか言ってるよりは全然古いんですよ。

【三浦】熊さんと八っつぁんって、江戸のいつごろの話なんですかね、あれって。

【和田】それは、そのさっき言った「おそ松くん」理論で定義されてないんだけど。

【三浦】いつでもいいんだ。

【和田】いつでもいいんです。いつでもいいんだけど、雰囲気としては幕末とか明治・大正、そのゾーンです。

【三浦】ああ。なるほど、なるほど。まあだから、その辺ちょっと遊郭なんかもリアルにあった時代の感じってことですかね。おそらく、その辺だろうなっていう。へえ、面白いなあ。

【和田】おそらくっていうか、だからそこはわざとグレーにしているわけなんですけどね。

【三浦】あいまいにしてますね。

【和田】あいまいにしてるわけなんだけれども。

【三浦】まあだから、よく落語の国の人々って言うじゃないですか。熊さん、八っつぁん、横丁のご隠居、大家。まあ永遠に生きてる人たちなわけですよね。

【和田】そうです、そうです。

【三浦】もう、時を越えて。

【和田】だから、さっきの例えに戻ると「トムとジェリー」とか「ランナーとコヨーテ」とかが。

【三浦】そっか、永遠に生きてますもんね。

【和田】永遠に生きてるでしょ? あれのノリに近いんですよ。別に古びないし。

【三浦】古びないですね。

【和田】逆に言うと、今の世相にそんなにくっついてもいないし。で、ずっと追っかけっこを永遠にしていると。

【三浦】そっか、永遠のものであるということですね。なるほど。面白い、これは。

【和田】てなこと。そこが一番違うんだろうなあと思うんですよね。で、内容を問うた場合には談志師匠の言ってる定義はすごく、わりとしっくりくるかなとは思いますね。

【三浦】そうですね。ただ、そうやって定義をやっぱり、きちっとなのか発してくれたのって、談志師匠くらいですよね?

【和田】でしょうね。だから談志師匠がこの内容を「忠臣蔵」を例えに言ったのはすごいよくて、まあそうじゃないとやっぱり、地の語りが多いのが何だの、前にこう机があるのが講談ですみたいな。

【三浦】通り一遍の説明になっちゃいますもんね。

【和田】そうです。

【三浦】それ間違っちゃいないけど、それだけで理解してても……。

【和田】それは、かたちですからね。結果、内容によって形式が決定されてるわけで。それが、なんか上下つけてんのが何とかの何やらで、何やらが何とかでって言ったところで、なんかあんまり意味がないというか。

【三浦】まあ、やっぱり世界観の話を語らないといけないですよね。受け取る側としては。

【和田】そうです、そうです。

【三浦】まあ、たしかに講談で「赤穂義士伝」いくつか聴いたことありますけど、ほんとに四十七士およびその周辺の人たちの話ですもんね。

【和田】そうです。
で、ほんとはね、まあ談志師匠も分かってて言ってたと思うんだけど、講談であろうが、あるいはそこから派生したような歌舞伎の演目であろうが、参加できなかった人とか失敗した人との話って「銘銘伝」とかね、それのさらにそこの家にいた不破数右衛門の家に誰と誰と誰が住んでるとか、その話が面白いんですよ。

【三浦】そうですね。

【和田】そっちが面白いんですよ。面白いほうは。

【三浦】なんか、いわゆるスピンオフ的な話。面白いですよね。

【和田】そうです。そこに巻き込まれて、隣の酒屋の絵図面もらうのに自分が犠牲になるとか、その隣の人の話が面白いんだけど、でもそれはあくまで本伝と言いますか、本懐遂げた人たちがあるから派生バージョンもあるわけで。ということですよね。

【三浦】ちょっと今のお話で思い出したんですけど、神崎与五郎っているじゃないですか。「神崎の詫び証文(※3)」っていう話があって、あそこのやっぱり馬引きの丑五郎っていうのも完全に本来の主人公じゃないですもんね。

【和田】そうです。あれはすっごい、いい話ですよね。

【三浦】いい話ですよね。

【和田】「神崎の詫び証文」は僕はね、あの話がどういうふうに成立したかっていうの、実はすごく興味があって。

【三浦】あ、そうですか。

【和田】あれはね、講談をよく分かってる人がへたしたら近代に入ってつくったのかなって気もしてるんですよ。そのくらい、よくできてるんです。

【三浦】よくできてますよね。講釈師も出てきますもんね。

【和田】そうなんです。だから、そこがすっごく面白くて。要するに馬子が忠臣蔵というか赤穂義士の「あ」の字も知らない無学なやつが、神崎与五郎が東下りをするときに酒に酔っ払って、いやがらせみたいなことをしちゃうわけですよね。

【三浦】そうですね、いやがらせしますね。「俺の馬に乗れねえのか」って言って。

【和田】そうそう。「俺の馬に乗れねえのか」とかさ。

【三浦】で、土下座までさせた上に詫び証文を書かせるんですよね。

【和田】詫び証文を書かせて、へこませてやったぞみたいに思ってるわけじゃないですか。だけど、その1年後に江戸で赤穂の浪士がですね……。

【三浦】見事、本懐を遂げた。

【和田】吉良邸に討ち入ったぞっていうニュースを聞くわけですよ。それを旅に来た講談師が語ってるので聞くわけですよ。で、ちょっと待ってくれと。「今、何て言った? 神崎与五郎って言った? そいつ知ってるぞ、俺は」みたいになるわけですよ。だから、そのつくりがやっぱりね、めちゃくちゃモダンなんで。だから、あれをどういうふうにあのかたちが成立したのかなっていうのが。もちろん、講談の中に講談が出てくるのは江戸であっても不思議では全然ないんだけど、あれはほんとに優れた作ですね。

【三浦】ああ、そうですか。あれは当代の伯山で何回か聴いたことありますけど、何度聴いてもいい話ですよね。

【和田】僕が聴いた範囲の中でも、伯山さんの中ですごく好きな話ですね。

【三浦】で、最後ね、丑五郎は泉岳寺まで行って寺男になるんですよね、墓守に。それで、神崎与五郎の墓だけがいつもピカピカだったっていう。

【和田】そうです。

【三浦】そういう面白い話ですね。
ほかにも「赤穂義士伝」……「赤穂義士伝」はでも、あんまり落語家さんはやらないですかね?

【和田】「義士伝」の、その今言った「神崎」みたいなやつですか?

【三浦】「神崎」にとどまらず、ほかの。

【和田】あんまりないでしょうね。

【三浦】「忠臣蔵」的な話って、やっぱり落語にしづらいですかね?

【和田】うーん。だから価値観としては、しづらいでしょうね。

【三浦】でしょうね。まあ事実関係がもうはっきりしてるし。

【和田】そうですね。だからそこを割り切って、これはこういうネタなんですって言ってパンってやっちゃうのは。
ちなみに「神崎」は僕の記憶だと5代目圓楽さんは、たしかやってらしたと思いますけど。

【三浦】あ、5代目圓楽。

【和田】うん。たしかやってらしたと思いますね。

【三浦】講釈っぽくやったってことですかね?

【和田】うーん。まあ講釈……だから、さっき言った例で言うと、それをもっと何て言うのかな、会話みたいな感じに近づけてっていうことだったような気がしますね。

【三浦】会話でもっていくと。やっぱり、さげはあるんですかね、その場合って。

【和田】いや、えっと……ないと思いますね。

【三浦】ないですか。

【和田】はい。

【三浦】丑五郎は寺男になって、ずっと泉岳寺で墓守を続けたっていうことで終わるってことですよね。

【和田】はい。

【三浦】なるほど。「赤穂義士伝」まあ「忠臣蔵」ですけど、「忠臣蔵」の話にすると、講談でも落語でもある、いわゆる仮名手本を実際に芝居をモチーフにした話が中村仲蔵とか淀五郎とか。これは、わりと落語家さんもよくやりますよね?

【和田】やりますね。だから、あれは忠臣蔵の討ち入りそのものが主題ではなくて、その助演に関してこういうエピソードがあったよということ。

【三浦】まあ中村仲蔵だと、いわゆる弁当幕と言われている幕を仲蔵がどう演じるかっていうような話だったと思うんですけど。あれ、ちょっと講談と落語で微妙に違うのが、落語って、さげがありますよね?

【和田】ああ、ありますね。はいはい。

【三浦】あのさげって、結構かなり……まあこういう言い方したら失礼ですけど、どうでもいいような感じがしちゃうんですけど。

【和田】いやいや、そうですよ。さげっていうのは、基本的になんかどうでもいいレベルにするだけのものだから。

【三浦】そのほうがいいってことですかね。

【和田】そうそう。

【三浦】でも、こうスパッとさげられて「あ、これいいな」と思うのと、「そこどうでもいいな」と思うのとありますね。

【和田】そうですよね。まあ、あれの場合はほんとに文字通り、あとで取ってつけたものだから。

【三浦】そうですね。だからそこにもっていくのに……。あれ? 煙に巻かれるってやつでしたっけ?

【和田】煙になっちまうっていうのが彦六さんがやってたやつだし、それから……。

【三浦】たばこ入れをもらうんですよね? たしかね?

【和田】そうです、そうです。だから、たばこ入れもらうっていうのも、そのための段取りですから。

【三浦】もう段取りですよね。別に何でたばこ入れなんだって話ですよね。

【和田】そうそう。

【三浦】講談だと、たしかそのところないんですよ、全然。たしか。もう純粋に町の芝居好きの人たちが話してるのを見て「あ、俺もう一回やっぱりやろう」って思って。で、「今日も掛け声がかからない」「今日も掛け声がかからない」って言って、最後にようやく来るんですよね。あの辺の、まあなんか落語の仲蔵を聴いていると、気持ち的にはちょっと講談のほうがグッとくるなというふうに思うんですけれど。

【和田】だとするならば、落語家も割り切って、最後をもうオチなしでその雰囲気で終わるっていうふうにしたほうが、今様なのかもしれませんね。

【三浦】そうですね。

※1:雷電為右衛門(らいでんためえもん)
※2:正しくは「ワイリー・コヨーテとロード・ランナー」
※3:正しくは「神崎与五郎の詫び証文」
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書き起こし担当:田中 あや

いつもご依頼いただきありがとうございます。
今回の「落語と講談の違い」のお話、落語も講談も詳しくないわたしにも分かりやすく、とても勉強になりました。
今回も、お話の題名などを調べながらの文字起こしになりましたが、知識が増えることは何歳になってもうれしいものです。これからも楽しく勉強させいただきます。
そして、和田さんと三浦さんがそろって「いい話」とおっしゃっていた「神崎与五郎の詫び証文」は、ぜひ聴いてみたいです!
またのご依頼を、心よりお待ちしております。

テキスト起こし@ブラインドライターズ
(http://blindwriters.co.jp/)


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