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【PODCAST書き起こし】和田尚久さんに、立川談志と「立川流」「名跡」「馬生」などについて聞いてみた その1

【PODCAST書き起こし】和田尚久さんに、立川談志と「立川流」「名跡」「馬生」などについて聞いてみた その1

TFCラボ プレゼンツ  集まれ!伝統芸能部!!

【山下】こんにちは。BRAIN DRAINの『集まれ!伝統芸能部!!』のお時間です。今日は、落語・講談ということで、前回に引き続き、ゲストで落語に詳しい放送作家の和田尚久さんに来ていただきました。和田さん、よろしくお願いします。

【和田】お願いいたします。

【三浦】よろしくお願いいたします。

【山下】ポッドキャスターを務めるのは……。

【三浦】はい。ポッドキャスターは、三浦です。よろしくお願いいたします。

【山下】よろしくお願いします。

【三浦】では、前回に引き続きまして、今日は、和田さんがゲストに、来ていただきましたので、また立川談志のこと、それから立川流のことで、いろいろお話を伺いたいと思います。和田さん、よろしくお願いします。

【和田】はい。よろしくお願いします。

【三浦】前回は、和田さんが、談志師匠の晩年のラジオ番組、ずっとご一緒されていたということで、主にラジオ番組のお話と、そこから関連するお話をいただいたんですけれども、今日は、立川談志師匠の若いころのこととかを、もし、和田さんに談志師匠が話していたとしたら、その辺の話も伺いたいなと思って。よろしくお願いいたします。

【和田】はい。

【三浦】漏れ聞くところによると、談志師匠は、結構、若いころ生意気であったという、大変、聞いているんですけど、やっぱりそうなんですかね?

【和田】そうなんでしょうね。僕も、その時代は、当然知らないですけれども、ご本人が、著作の『現代落語論』とかに書いていらっしゃるけれども、志ん朝さんとか円楽さんが、後輩なんですよね、本当はね。だけど、真打になるのも円楽さんよりもあとになっちゃった。それは、生意気だからというような、幕内の評判が良くないんでと言って。というので、遅らされたとか、推挙されない、逆、マイナス評価みたいになってしまって、芸はいいんだけれどもというね。

【三浦】人間性みたいなことですか?

【和田】ということなんでしょうね。それをご自分で書いていますよね。だけど、三代目桂三木助が、柳家小えんの芸を聞いて、「こいつうまいな」と。「これだけうまけりゃ生意気になってもしょうがねえや」というふうに言ったと、評したと。

【三浦】今、柳家小えんと出ましたけれども、これ、談志師匠が、二ツ目のときの名前ですね。

【和田】そうです。柳家小よし、最初は小よしで。

【三浦】小よしで、前座。

【和田】前座でね、松岡克由というのが本名なんですけど、「克由(かつよし)」の「「よし」の字をとったと思いますけど。小よし、そのあとが柳家小えん。で、まあ、ほかの候補もあったらしいんだけれども、改めて立川談志を襲名したということですね。

【三浦】それは、真打になったと同時に襲名したということですか?

【和田】もちろんそうです。それで、同期になったのが、つばめなんですよね、柳家つばめ。つばめになるって、自分がつばめになるって話も、確かあったんじゃなかったかな。両方小さん門下なんで。だけど、つばめというのは、あんまりそんなにほしくもないみたいな。

【三浦】名跡としては、別に、という感じなんですか?

【和田】いや、つばめというのも、このあいだの方が五代目のはずなんで、その前が何人かいます、4人くらいいます。名跡ではありますね、柳家つばめ。で、立川談志も、その前が6人かな、いるんで、立川談志も名跡です。ただ、立川談志というのは、その前の、今日話している談志さんの一代前、戦後まで生きていらした人なんですけれども、立川談志という人が、「俥屋の談志」と言われたんだけど、あんまりパッとしない人だったですね、晩年。

【三浦】俥屋の談志。

【和田】そう。俥屋というのは、『反対俥』というネタを元にして。

【三浦】はい。ネタがありますね。

【和田】だから、それで、通称「俥屋の談志」と言われたんですけれども、あんまり、特に晩年パッとしなかったんで、柳家小えんから談志になるときに、ご本人が、まあ、見つけてきた名前なんだけれども、周りから、あんまりいい名前じゃないねとい、ちょっと下がっちゃうんじゃないのというような。

【三浦】そのころは、もうその先代の談志は亡くなっていたんですか?

【和田】亡くなっています。が、昭和20年代までいた人だから、空白期、10年くらいですね。だから、そんなにすごいブランクじゃないんですよ。10年くらい空いていた名前を、自分が継ぎたいということで

【三浦】それは、何か継ぐということに関して、これ、ほんの仕入れたネタなんですけど、ネタというか、高座で松之丞が伯山襲名するときに、伯山の名前を持っている人に、結構あいさつに行って大変だったみたいなことを、講談の伯山という名前では聞いたんですけど、落語もそういうことはあるんですかね?

【和田】ありますね。落語は、基本的には、先代の遺族……。

【三浦】あ、ご遺族?

【和田】ご家族か、ご家族、伯山も、たぶん、そう言っていたと思うんですけども、前の伯山の、まあ、お弟子さんも、当然関係してくるんだけれども、それを、遺族とか、名前を預かっているというみたいな感じ……。

【三浦】そうみたいですね。なんとか、スギヤマさんとかいう人が、名前を預かっていたという。弟子だったんですかね、もしかしたら?

【和田】弟子ですね。弟子であり……。

【三浦】もう廃業しちゃったんですよね。

【和田】そうです。プロともアマともというか、でも、今、そのお名前を持っているという方だったらしいんですけど。そういうところに行って、あるいは、そのお弟子さんが絶えている場合はご遺族のところに行って、これこれでという話をして、そのときに、例えば先代とか、そのさらに前の代の、じゃあ、これ以降、お墓の管理をしますとか、法事をしますとか、そういう責任も、当然負うわけなんですよね。

【三浦】そうなんですね。ただ名前をもらうだけじゃなくて。

【和田】だけじゃなくて、そういう、ケアもしますということが必要なんだそうです。あまりに離れている場合は、もう関係ないんで、そういうのは、たぶん、ないと思いますけれども。

【三浦】じゃあ、談志師匠も、談志を継ぐときは、そういうような経緯というのはあったんですね。

【和田】でしょうね。特に、そんな2時間は離れていないから。

【三浦】遺族もいらっしゃるでしょうし。

【和田】ご家族がいればいらっしゃったと思うし、その前の談志さんというのは、僕、よく知らないんですけれども。あとは、小さん師匠とかが、そういう人が、うまく話をつけてくれたのかもしれないしね。

【三浦】小さん師匠は、当然、前の談志さんとは面識がありますもんね。

【和田】もちろん、かぶっています。時代はかぶっていますね。

【三浦】音源とかは、前の談志さんは残っていないんでしょうね?

【和田】僕が知る限りはないですね。だけど、内海桂子・好江さんというか、好江さんのほうが、あの方たち、芸風古いんで、「前の談志さんはね」とか高座でおっしゃっていたから。だから、桂子・好江なんかは一緒に出たりしていたんでしょうね。

【三浦】すごいですね。

【和田】何年くらいかな、昭和25年くらいまでは、普通にというか、番組見ていると、名前出ています。

【三浦】過去のネタ、番組……。その、前の談志さんは出て……。

【和田】そうですね。で、談志というのは、その、今話している談志、七代目五代目と言ったり七代目と言ったりしているんだけど、七代目の談志は、あの……。

【三浦】ここには、『現代落語論』の最終ページ見ると、裏カバー見ると、五代目と書いてありますね。

【和田】五代目ですよね。だから、五代目とずっと書いていたんです。だけど、数えたら、これ七代目だよという説があって。

【三浦】そうなんですね(笑い)。

【和田】両方混在していたんですけど、没後は七代目のほうに、どっちかというと統一されていて。

【三浦】談志師匠が亡くなられてからは。

【和田】ご本人は、五代目と書いてあるでしょ、そこの『現代落語論』に。

【三浦】ええ、ここに書いてあります。これ、当時ですもんね、要はね。

【和田】当時。で、晩年も、、五代目と、ご本人は言っていることが多かった。だけど、橘左近さんとか、ああいう人がいろいろ調べて、いやいや、これ、やっぱり数えると7人目なんじゃないですかみたいな話があって(笑い)。まあ、それ、いいんですけどね。八代目文楽だって八代目じゃないというらしいんで。で、それは、私は別に自称でいいと思うんだけども。これ、後付けかもしれないんだけど、談志師匠は、自分が継いだ名前は、柳家小えんという、ある種、なんていうのかな、まあ、ちょっと粋な名前というか、名乗っていたわけなんだけれども、そこから、例えば、「何何何之丞」みたいな、とか、「なんとか何衛門」みたいな、そういう名前じゃなくて良かったと。そういう名前だと、伝統というか、江戸というか、そういうものにどうしてもくっついたイメージになってしまうと。「何之丞」「何衛門」みたいな名前だと。そういう人いるじゃないですか、今でも。で、談志さんは、これ、後付けかもしれないんだけど、自分は、例えば、テレビにも出る、本も書く、現代的なことなんでもやりたいし、やるんだよと。そのときに、立川談志というのが、「何々家何之丞」みたいなのじゃなくて、すごいすっきりしていて、なんでもいける名前であってほしい……。

【三浦】開放されている感じの名前と。

【和田】そう、そう。だから、すごく、これは、俺は、いい選択をしたとおっしゃっていましたね。

【三浦】ああ、そうか。落語家でも「何之丞」「何衛門」、いますもんね。

【和田】います、います。

【三浦】数えると結構いますかね?今、パッと思いつくのって、今の噺家さんだと、古今亭菊之丞と橘家文左衛門ぐらいしか思いつかないんですけど。

【和田】まあね。そうです。でも、あまりにも、ご本人が例えに出していたのは、例えば、中村歌右衛門と言っちゃうと歌舞伎役者でしょ。松本幸四郎と言ったら、なんか普通っぽいと。だから、俺はそっちでいくって(笑い)。

【三浦】ああ、なるほど。我々は、もう、歌舞伎というふうに、頭に染み付いちゃっていますけど。

【和田】思うけどね。思うけど。

【三浦】一般的には、そうか、普通の名前にも聞こえるということですよね。

【和田】聞こえるじゃないですか。だから……。

【三浦】歌右衛門は、確かに、現代的な名前ではないですしね。

【和田】でしょ? で、松本幸四郎というと、これは、ちょっと、別に後付けですけど。

【三浦】こういう人もいるかな、くらいな。

【和田】まあ、別に、ミュージカルとやってもおかしくないしね。でも、それ、例えに出していましたよ。

【三浦】面白いですね。

【和田】そういう名前を、俺は選んだし、それは、すごい良かったなとおっしゃっていました。

【三浦】当時、小えんが粋な名前というのは、どういうことなんですか?

【和田】それはですね、小さんという名前がありますよね。小さんというのも、今、そのイメージ、たぶん、ないと思うんだけど、あれ、ほんとは、女名前なんですよ。小さんって芸者の名前なんで。

【三浦】あ、そうなんですか? へえ、芸者?

【和田】小さんとかね、小春……。

【三浦】小春、こま……。

【和田】要するに、歌舞伎の出し物で、『小さん金五郎』という出し物があるんですよ。芸者の小さんと男の金五郎というのが、『お染久松』みたいなもんで、『お染久松』とか『お花半七』と一緒で、『小さん金五郎』というカップルの物語があるんです。で、小さんって、芸者の名前なんですよ、本来は。

【三浦】字は、やっぱり、「小さい」の漢字に、「さん」は平仮名でで書くんですか、芸者の場合も?

【和田】そうです。それを、わざと落語家が付けちゃっているよという洒落なわけですよ。

【三浦】洒落なんだ。それは、初代が洒落で付けたということですか、初代小さんが?

【和田】もちろん、そうですね。だから、春風亭小さんと言っていたはずですけどね、初代は。

【三浦】春風亭だったんですね。

【和田】うん。それで、その、芸者の名前を、あえて男が名乗っちゃうという、そこから派生しているわけですよ。

【三浦】へえ、面白いですね。

【和田】小さん、だから、お染久松、三遊亭お染とか言っているのと一緒なわけですよ、わざと女名前を付けて。なんとかお花とか名乗っちゃっているのと一緒、男がね。だから、そこから派生して、小さんアンド金五郎のカップルであると。だから柳家金五郎という名前ができた。

【三浦】そうなんですね。じゃあ、柳家金五郎は、あとでそういう名前ができたということなんですね? 落語界に持ってきたという、あってもいいんじゃないかという。

【和田】そうです。小さんアンド金五郎だから、じゃあこっちの名前も持ってきてもやめる必要はないんじゃないかということですよね。で、小さん系統というのは、「小」の字を付けて、小えんとか小よしとか、小春とか、付けているんですけれども、小春というのは、柳家さん助さんという人が亡くなって、さん助さんという人が、前座時代が小春だったんですけれども、その、「小なんとか」というのは、要するに芸者名前なわけですよ。

【三浦】言われてみれば、そうですね。

【和田】だから、まあ、そういうイメージないかもしれないんだけど、そういう粋な名前というか、わざと付けているよみたいな、そういうこと、ノリなんです。

【三浦】昨日、たまたま、春風亭一之輔の真一文字の会というのがあって、行ってきて、『たちきり』やったんですけど、あれも小ひさですもんね。やっぱり、「小」付きますね。

【和田】そうです。小ひさと言ったり、小ふでという人が出てきたり、その系統は芸者の名前ですね。

【三浦】あなるほど。ああ、芸者か。やっぱり、その花柳界というのとの結び付きも、当然あるあるわけですもんね。芸事ですからね、芸能をやるからには、はあ。

【和田】そうですね。小ひさ、そうね、『たちきりは小ひさと言っていますね、確かに。

【三浦】それで、そうか。小えん』、ちょっとそっち方面の粋な名前ということはわけですね。

【和田】だと思います。で、そういうような、江戸風というか、そういう名前だったんだけれども、小えんというのは、そのルーツはよく知らないんですけれども、で、それを、マア、意志的に自分で選んで、立川談志になったということですね。

【三浦】ほかに、小さん師匠は、こういう名前はどうかみたいなことって、あんまりおっしゃらなかったですかね?

【和田】なんか、つばめを勧められたんだけど、燕はいやだと言って。あと、ご本人は、小三治になってもいいと。なってもいいというか、なりたいという意見を小さん師匠に言ったら、お「いやいや、お前はちょっと小三治は駄目だよ」と言われて……。

【三浦】あ駄目だって言われた。そのとき、今の小三治師匠は、?

【和田】ええと、後輩でいますよ。小三治と言っていないですけどね。

【三浦】まだ、小三治になる前でしょう? 

【和田】もちろん。「さんじ」って言っていたんですけどね。

【三浦】じゃあ、小三治はとっておいたということですね。小さん師匠としては、その小三治のために、もしかしたら。

【和田】そう。たぶん、小三治はその時点で視野には入っていないんだけど……。

【三浦】ああ、誰に継がそうとは思わないけど、お前は駄目だと(笑い)。

【和田】お前じゃないよ、と言って(笑い)。

【三浦】かわいそうですね、それ。

【和田】それ、なんか、談志師匠、自分で、たぶん、そこの本かな、どっかに書いていて。「小三治ほしい」と言ったら、「いやいや、お前はちょっと違うだろ」と言われて、あきらめたと言って。

【三浦】なるほど。小三治って、やっぱり小さんにいく出世名ですもんね。

【和田】もちろん、そうです。出世していない人もいるんだけど、五代目小さんの前名ですからね、小三治から小さんになっているから、そういう名前出して、字面もいいですしね。

【三浦】小三治はいいですよね。

【和田】すごくいいです。

【三浦】柳家小三治というだけで、なんか、こう、気持ちのいい名前ですもんね。

【和田】そう。代々の中には、全然出世しないで、なんか事務員になっちゃった人とかも……。

【三浦】事務員? 落語会の事務員?

【和田】事務員(笑い)。落語会の、事務員になった、落語協会の、人もいるんですけど。

【三浦】五厘(ゴリン)って言うんでしたっけ、そういう人たち。

【和田】五厘ね。昔はそうですね。明治、大正のころは。

【三浦】小三治継いで、事務員になっちゃうのも、ちょっと寂しいですね。でも、そういう人がいたから、そのあと、また小三治を継ぐ人が出てきたわけですもんね。

【和田】今の小三治さんって、十代目ですからね。

【三浦】そうですね、十代目ですもんね。

【和田】結構、人が多いんですよ、小三治という名前の。

【三浦】今の小さんさんは、六代目になるんですかね?

【和田】そう。六代目です。

【三浦】今の小さんさんって、親族ですか?

【和田】もちろん。五代目の子供です。

【三浦】あ、子供か。甥っ子とかじゃ、息子か。息子なんですね。

【和田】そうです。三語楼と言ったかな。

【三浦】柳家三語楼。三語楼も、なんかいい名前ですよね。

【和田】三語楼、めちゃくちゃいい名前です。三語楼というのは、談志師匠が、自分が志ん生という人に憧れて、志ん生の芸が好きで、その分析を、この芸はどこからきたんだというのを、いろいろご自分で考えていらしたんですよね。そのときに、これ、自分で発見されたり、本を読んだりもしたんだと思うんだけど、志ん生という人の、元ネタが柳家三語楼なんです。これは、その通りなんです。で、談志師匠は、その三語楼は、当然知らないんだけども、志ん生、志ん生と言っていたけど、どうもそのさらに元って三語楼だな、三語楼ってすげえなということを晩年おっしゃっていて、で、五代目の小さん師匠というのは、三語楼を、当然、同時代に見ていた。三語楼というのは、昭和、13年か14年に亡くなった人なんですね。

【三浦】ああ、戦中に亡くなられたんですね。

【和田】戦中です、戦中。だから、そんなに大昔じゃないんです、昭和十何年まで生きたわけだから。だから、当然、小さん師匠とか、志ん生、文楽とかは同時代にいた人なんですね。で、小さんさんが言っているのは、自分が客の時代とか若手のころに見て、三語楼という人がほんとに面白かったと。自分の師匠は四代目小さんなんだけど、自分の師匠も、当然良かった。だけど、そのほかに、三語楼というのがというふうに、芸談見ると言っているんですよ。だから、自分の子供に三語楼と付けたんですよ。

【三浦】なるほど。それは、やっぱり、その先代の三語楼師匠に、家族とかに話つけて、継がせていいですかと。

【和田】でしょうね。話、当然、つけて、そういうふうにしたんだと思いますけれども、そのご家族がいたかどうかはちょっとよく知らないですけど。だから、ほんとは、三語楼ってめちゃくちゃいい名前なんですよ。

【三浦】あんまり、昭和の名人列伝の中に、そんな出てこないですもんね。

【和田】いわゆる、志ん生、文楽、金馬、圓生、三木助というのは、戦後活躍した人なんです。

【三浦】あ、戦後か。戦前派、戦前戦中派とですね。

【和田】戦後までいった人なんです。だから、13年か14年に亡くなっている人だから、戦後の活躍していないんです。

【三浦】そうすると、音源もないし……。

【和田】音源はほぼないです。SPレコードはあるんだけど、いわゆる、放送時代にかぶっていない人なんで、民間放送とかの、つまり、専門が出ていれば音が残るんですけれども、三語楼は戦前のSPレコードがちょっとあるだけなんですよ。だけど、いろんなことを、例えば、志ん生さんが書いたように小さん師匠が面白かったと言っているだとか、統合していくと、やっぱり三語楼ってすごかったって。

【三浦】いろんな人の言質を総合すると。全然知らなかったですね、その、三語楼さんは。

【和田】だと思います。

【三浦】その時代の、志ん生、文楽より1つ前の時代ということですよね?

【和田】そうですよね。そう、1つ前。要するに、志ん生の師匠の一人だから、1つ前です。

【三浦】ちなみに、志ん生の師匠って、誰だったんですか?

【和田】志ん生の師匠は、最初は小圓朝という人です。三遊亭小圓朝という人で……。

【三浦】だんだんなんか、明治のほうにいくような感じの名前になってきますよね。

【和田】明治ですね。要するに、ご本人が、ちょっと、談志さんの話から外れちゃうんですけど、『びんぼう自慢』とかそういう本があって、自分の師匠ですと言っているのが、橘家圓喬。

【三浦】橘家圓喬。その人の名前、知っています。結構大名人と言われている人ですね。

【和田】これは、もう、大名人ですね、圓朝門下の。

【三浦】圓朝の門下?

【和田】そう。圓朝の弟子で、見ていた人に言わせると、技は圓朝を凌ぐねという評判だったというくらいのものすごい名人だったんですよ、圓喬という人は。で、志ん生さんは、自分の師匠派圓喬だったとかいているんですね。だけど、それはあとから検証すると、どうもほんとのリアルな弟子じゃなかったらしい。ということは、弟子ですと言いたいくらい好きだったんです。どうせ誰も分かんないからと言って、そういうふうに言っていたわけです。だから、志ん生さん、面白いのは、『びんぼう自慢』とか、インタビューなんか残っているんですけど、そうすると、「うちの師匠は」と言って、圓喬の話しをしているんです。

【三浦】ああ、うちの師匠派と言って、それはイコール、橘家圓喬師匠のことなわけですね。

【和田】そう。ほんとは弟子じゃないんだけど、まあ、でも、当然周りにいたわけですよね。

【三浦】まあ、だから、稽古してもらったこととかは、きっとあるんでしょうね。

【和田】あるのかな?

【三浦】まあ、別に稽古つけてもらわなくても、師匠と呼べば師匠なんですかね?

【和田】だから、師匠と言張っちゃっている(笑い)。

【三浦】そういうことですね。

【和田】で、周りの人も、「あ、そうなんだ」と言って、圓喬さんの弟子なんだというふうに思っていて、だから、志ん生さんというのは、例えば、『火炎太鼓』とか『代り目』とかやるんだけど、それと突然違う『鰍沢』とか、ああいうのやるんですよ。

【三浦】それは、やっぱり、圓朝からの、ひとつの流れだと……。

【和田】流れだし、圓喬がやっていたんですよ。圓喬ネタなんですよ。

【三浦】橘家圓喬。『鰍沢』。なるほど、そうですよね、志ん生師匠やっていますもんね、『鰍沢』ね。

【和田】客観的に見たら、あんまり分からないというか。だけど、『鰍沢』とか、あと、このあいだ、僕、発見したんだけど、『江島屋』という怪談話があって……。

【三浦】あ、『江島屋』。名前、タイトル、聞いたことあります。

【和田】ちょっとB級の怪談話なんですよね、『江島屋』って。で、圓生とか笑三、やっていないんですよ。


【三浦】ああ、圓生、正蔵、やっていない。

【和田】圓生、正蔵とか、怪談話やった人たちが、『江島屋』派やっていないんですよね。

【三浦】あんまり、取り上げるにはどうかなくらいな。

【和田】どうかなみたいなやつなんですよ。恨みを抱いたお婆さんがひとつ屋根に住んでいるという話なんですけど、ちょっとおどろおどろしい、そういうイメージの話なんだけど、それ、志ん生さん、なんでやっているのかと思ったら、資料見ていたら、やっぱり圓喬がやっているんです。

【三浦】自分が師匠と思っている人がやっているから、自分もやろうと。

【和田】いや、だと思います。で、志ん生さんは、ひとつの大きい巨大なルーツが、その圓喬という人、写実派の、だから、圓朝系の人ですね。圓朝の孫弟子、孫弟子というか、圓朝の弟子が圓喬だから……。

【三浦】孫弟子ですよね。

【和田】孫弟子っぽい感じですよね。で、それが一方にある。それとは別に、柳家三語楼の、あれは、だから、三語楼の初代になるのかな、ちょっと代数を忘れましたけど、今、話に出ていた三語楼の門下に入っていた時期もあって、そのときに甚語楼という……。

【三浦】甚語楼。

【和田】付けていたわけなんです。甚語楼派、その関係だったと思いますけれども。で、三語楼に関しては、完全に門下だったときもあります。

【三浦】あ、門下だったんですね。

【和田】で、だから、三語楼というのは、当時、落語に英語を入れたりとか、……。

【三浦】おお、新作っぽい感じですか?

【和田】そう。それとか、『寝床』という話しがあるじゃないですか。あれで、番頭さんが行方不明になっちゃったという、なんか聞いたことあります?

【三浦】番頭さん……、あの、逃げちゃって……。

【和田】逃げちゃったと言って、今、番頭さんはドイツにいるとかという……。

【三浦】ああ、なんか、1回、1回というか、過去に聞いたことあるような気がします。

【和田】あります? 要するに、『寝床』の、旦那が義太夫やるシーンまでいかないで、もう、番頭さんが、あまりにも義太夫がひどいんで、やだからと言って逃げちゃったと言って、今、ドイツにいるとかと言って、そこで終わっちゃうのがあるんですけど、これ、志ん生さんがやっていたんですよ。

【三浦】面白いですね。

【和田】そういうふうに、後半やらないで、義太夫シーンなしで。これ、面白いと言われていたんだけど、このバージョン作ったのが三語楼だったんですね。

【三浦】それは、ちょっと短めに終われるからみたいなこともあるんですかね?

【和田】こともあるし、もう、後半のくだり、別になくていいという判断でしょうね。

【三浦】当時、当然ですけど、寄席でそういうのかけていたわけですもんね。そうすると、ちょうどいい、ちょうどいいというような言い方もなんですけど、お客としては、そこで下げられても面白いですよね、寄席ではね。

【和田】面白いですよ。だから、志ん生さんは、いろいろ師匠変えたりとか、一時、講釈をやったりとかしているんだけど、その二人が巨大なルーツですね。圓喬と三語楼。三語楼というのは、確かに、研究したら面白いかなとは思います。

【三浦】その、三語楼についてということですね。

【和田】そうです。

【三浦】あんまり書かれていないような気がしますね。

【和田】ないですね。だから、談志師匠の話に戻すと、談志師匠が、晩年に、三語楼というのは、ものすごい興味を持って、福田和也さんに、三語楼のこと書けよとかと言っていましたよ。

【三浦】福田和也さん、でも、結構若いじゃないですか。じゃあ、それを研究しろということですね。

【和田】そういうことですね。若くても……。

【三浦】命令したということですね(笑い)。

【和田】福田さんって、例えば、明治の言論のこと書いたりとか、そういう近代史みたいなの、いろいろ書いていらっしゃるから。

【三浦】そうか。その流れの中で、その人を辿っていけばいいということですもんね。

【和田】辿って、三語楼を、ちょっとモチーフに書いてみろよとかと言って、「でも、資料ありますかね」とか言って、福田さんもおっしゃっていて。確かにあんまりないだろうなという気がするんだけど。

【三浦】福田和也さん、それ、やっていないですね、まだ(笑い)。

【和田】やっていないですね(笑い)。でも、そういう近代人をいっぱい書いた著作を出されている人だからということだと思いますけれども。

【三浦】そうですね。福田和也さん、結構、立川談志師匠と対談とかしていましたよね?

【和田】していましたよ。だから、その、『名跡問答』という本になっているんですけど、あれは、『EN-TAXI』で11回やったんです。で、僕がそのうちの半分くらいは構成したんです。

【三浦】『EN-TAXI』、懐かしいですね。あれ、結構いい雑誌でしたよね。

【和田】いい雑誌ですよ。『赤めだか』というのと、リリー・フランキーの『東京タワー』は、『EN-TAXI』で連載して本にした。『東京タワー』は100万部いったと思います。

【三浦】『EN-TAXI』、結構持っていましたけど、あれはどこへやっただろうか? 家にまだあるかどうか(笑い)。

【和田】あれ、結構いい雑誌でしたよ。坪内祐三さんが、ずっといっぱい書かれたり、福田さんが、もちろん、編集して。

【三浦】福田さんが編集の主幹みたいなことですか?

【和田】いや、4人くらい編集同人がいて、福田和也さん、坪内祐三さん、柳美里さん、あと、もう一人いたかな、あ、リリー・フランキーだ。その4人ですよね。あと、もちろん、扶桑社の編集者はいるんですけれども。

【三浦】アレ、扶桑社でしたっけ?

【和田】そうです。あれは、だから、『赤めだか』は、あそこが初出で、僕もそのときに連載していたのが、『芸と話と』という本でしたね。

【三浦】『EN-TAXI』に、和田さん、連載されていたんですか? それはすごいな。

【和田】そうです。『赤めだか』と同じ時期に。

【三浦】『EN-TAXI』
、ちょっと、家、探してみよう。

【和田】あと、談志師匠の、今言ったような芸談みたいなのも連載していて、10回か、10回以上やったと思いますけどね、10回くらいかな。

【三浦】それは、まとまってはいるんですね。

【和田】まとまってはいます。『名跡問答』という……。

【三浦】『名跡問答』、それ、面白そうですね。で、談志師匠は、小えんから、真打になるときに、立川談志、今では、七代目、当時五代目と呼んでいたということですね。実は、小三治になりたかったけど、小さんがそれを許可しなかったと(笑い)。それは、もう、絶対、命令ですもんね、逆らえないですよね。

【和田】そうですね。まあ、でも、どうなのかな、どのくらいマジになりたかったのかというのは、ちょっと分からないっちゃ、分からないんですよ。

【三浦】まあ、言われて、「じゃ、いいや」と言って、あきらめたというか、ほかにしようと思ったんですかね?

【和田】なんか、談志師匠派、そのあと、ちょっと世代違うんだけど、今の柳家小三治がきて、三治と言っていたんだけど、そのときに「小三治になれよ」と言ったのは、俺が勧めたと言って。

【三浦】そうなんですか(笑い)? 今の小三治に?

【和田】それは、ちょっと、ほんとかなって。つまり、俺が勧めたと言うと、なんか、大きさ感、出るじゃないですか?

【三浦】そうですね、出ますね。

【和田】出ますよね。だから、ほんとなんですかね、みたいなと思いつついるんだけど。

【三浦】面白いですね。そういうのは、あんまり、例えば、今の小さん師匠に聞いても、答えはちゃんと返ってこないでしょうね?

【和田】ああ、でも、聞いてみたら面白いですよね。「全く言われていないよ」と言う話もあるかもしれないですよね(笑い)。初めて聞いた、みたいな。

【三浦】言うかもしれないですね(笑い)。今の、そういえば、小三治師匠って、そんなに、なんていうか、そういう、談志師匠のようにメディアに落語以外で出るタイプじゃないですよね。本は出したりしていますけど。

【和田】ああ、そうですね。でも、小三治師匠の芸談って、ちょっと抽象論みたいな感じのやつデスよね。なんか、禅問答というか、笑わせないように落語をやるとか。あんまり固有名詞をあげつらってなんとかということを語る人じゃないかなという感じに思って。

【三浦】小三治の話しは、きっとまたいろいろあるでしょうけど、ちょっと置いておいて、で、五代目談志になったという。


担当者 青山直美
いつもご依頼ありがとうございます。落語家さんの名跡というのは、重く、誇らしいものですね。和田さんが戦前の落語家さんのことを、「そんなに大昔じゃない」とおっしゃっていて、長い歴史を感じました。今現在の人だけではなく、過去その名前を襲名した先輩方も、そして、未来にその名前を継ぐ後輩からも、ずっと応援され、見守られているのですね。伝統芸能の奥深さを感じました。また、しばらく使われていなかった、立川談志の名前を襲名して、現代的なことをなんでも取り入れようとする談志師匠の名前の選択のしかたも、格好いいなと思いました。ありがとうございました。
      ブラインドライターズ


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