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美空ひばり「川の流れのように」

今日の曲は、美空ひばりの「川の流れのように」。

作詞は秋元康。作曲は見岳章。編曲は竜崎孝路。

美空ひばりは、9歳でデビューし、その天賦の歌唱力で天才少女歌手と謳われて以後、歌謡曲・映画・舞台などで目覚ましい活躍をし自他共に歌謡界の女王と認める存在となった。昭和の歌謡界を代表する歌手であり、没後の1989年7月2日に国民栄誉賞を受賞した。本名は加藤和枝。愛称は「お嬢」。

今回の曲「川の流れのように」は、1989年1月11日に発売された美空ひばりの生前最後に発表されたシングル作品。日本の歌百選に選定されている。ちなみに「百選」という名称ではあるが、選考の結果絞り切れなかったため101曲が選定されている。

元々は1988年12月発売のアルバム『川の流れのように〜不死鳥パートII』の表題曲で、シングルカットは、当初スタッフの意見は全員一致でポップス調の「ハハハ」にするつもりだったが、レコーディングしたひばり本人の強い希望もあってこちらに変更された。元々、アルバム『川の流れのように〜不死鳥パートII』は「自分の歌から遠い若い世代の人たちにメッセージを残したい」というひばりの意向により製作されたため、作詞には当時、作詞家・放送作家として若者からの人気を得ていた秋元が起用された。秋元や見岳章といった若い世代のクリエーターとの邂逅により、音楽活動を幅広く展開する意欲も見せた。

当初、「ハハハ」をシングルカットする意向だったスタッフに対して、ひばりは自分の人生と本楽曲を重ねて「1滴の雨が木の根を伝い、せせらぎが小川になる。水の流れがあっちにぶつかり、こっちに突き当たりしながらだんだん大きくなる。やがて大河になり、ゆっくりと海にたどり着く」と発言し、本楽曲のシングルカットを希望した。「あちこちにぶつかり」を説明するひばりのジェスチャーもだんだん大きくなって、普段はスタッフの意見を尊重するひばりが「お願いだから、これだけは私に決めさせて!」と熱望したという。

1988年10月11日に日本コロムビア本社内で行われた、オリジナルアルバム製作の報告も兼ねた、ひばりにとって生涯最後の記者会見の時にひばりは本楽曲について自ら発言している。ある記者が「ひばりさん、今回のアルバムを楽しみにされているファンの方々が沢山いらっしゃるかと思いますけれども、アルバムに収録されてる10曲がどんな曲なのか、紹介していただけますか?」と投げかけた。するとひばりは「えー…もう『川の流れのように』の曲を1曲聴いていただくと、10曲全てが分かるんじゃないでしょうか。だからこれからの私。大海へスーッと流れる川であるか、どこかへそれちゃう川であるかっていうのは誰にも分からないのでね。だから『愛燦燦』とはまた違う意味のね、人生の歌じゃないかなって思いますね…」と、それまでのスタッフの意向を全て覆す回答を残した。ひばりの記者会見後、製作部はバタバタしながら1989年1月のリリース準備に入ったという。

同年暮れの12月12・16・17日の3日間にわたって、翌1989年1月4日にTBSテレビで放送された、生涯最後のワンマンショー『春一番! 熱唱美空ひばり』の収録に臨んだ。総合司会は堺正章が担当し、特別ゲストには森光子、森繁久彌と尾崎将司が出演した。収録前に歓迎会が行われ、スタッフからひばりへ花束の手渡しなどがあり、ひばり自身スタッフの熱意を肌で感じていた。だが、番組収録終了後最後の記念撮影時に、ひばりが隣に座った番組制作プロデューサーの池田文雄に向かって「この番組が『最後』になるかもしれないから。私ねぇ、見た目よりもうんと疲れてるのよ、1曲終わる度にガクッと来るの」と話したという。後に堺がひばりの追悼番組で、当時「どういう意味での『最後』かは定かではないが…」と話している。しかしプロデューサーの池田は耳にこびりついて仕方がなかったという。脚の激痛と息苦しさで、歌う時は殆ど動かないままの歌唱であった。

この頃既に、ひばりの直接的な死因となった『間質性肺炎』の症状が出始めていたとされており、立っているだけでも限界であったひばりは、歌を歌い終わる度に椅子に腰掛け、息を整えていたという。それでも同番組のフィナーレでは、番組制作に携わったスタッフやゲストらに感謝の言葉を述べ、「これからもひばりは、出来る限り歌い続けてゆくことでしょう。それは、自分が選んだ道だから」という言葉で締め括る。そして新曲『川の流れのように』の歌唱後、芸能界の大先輩でもある森繁からの激励のメッセージを受けると、感極まったひばりは堪えきれずに涙を流し続けた。

1989年1月8日、ひばりは元号が「昭和」から「平成」へ移り変わった日を「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに…」と短歌に詠んだ。その3日後の1月11日、『川の流れのように』のシングルレコードが発売されたが、同年6月24日、ひばりは52歳で死去し、結果的に本楽曲は遺作となった。没後にシングル盤は売上を伸ばし、150万枚を売り上げるミリオンセラーとなり、1964年の「柔」に次ぐヒット曲となった。その後も売り上げを伸ばし、2019年時点では205万枚を売り上げ、「柔」を上回り自身最大売上のシングルとなっている。同年末の第31回日本レコード大賞では、本楽曲に「金賞」と「作曲賞」が授与されるとともに、故人となったひばりにも「特別栄誉歌手賞」が授与された。長年にわたる彼女の偉大な業績を称えて、この年から日本レコード大賞に「美空ひばり賞」も新設された。

美空ひばりの歌唱力について、「世界一ピッチが良い人です。マトリックスよりピッチが安定している」と奥田民生は語っている。尋常ではないほど優れているピッチ感が美空ひばりの歌の上手さの根底にある圧倒的部分である。その表現力は圧倒的で、音の大小のコントロールが非常にうまく、言葉一つ一つ、フレーズ一つ一つに緩急があり、物語すら感じるほどの表現力だ。

また、かなり低音域まで出せるのも特徴で、深い発声から明るい発声まで音色を自在に操る。地声域で押しを作り高音域で引きを作るような歌唱スタイルが多い・地声域はしっかりと太く鳴らして伸びやかに引き伸ばし、それ以降は非常に綺麗な音色のファルセットへくっきりとした鳴りで自在にコントロールしている。切り替えも綺麗で、倍音も美しく心地よい音色である。

この曲を聴いて、歌手・美空ひばりの圧倒的な人生を感じ、「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」を想う。


今日の写真は、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市を流れる海峡・イースト川。

イースト川は今からおよそ1万1千年前、最終氷期の末期に形成されたといわれており、アッパーニューヨーク湾からロングアイランド湾にかけての水域を指す。クイーンズ、ブルックリンなどのロングアイランドと、マンハッタン島さらにはブロンクスなどのアメリカ本土とを隔てている。

実は「川の流れのように」の「川」とは、ニューヨークのイースト川のことである。当時の秋元はニューヨークに在住しており、現地のカフェ「カフェ・ランターナ」で作詞した。秋元は、いつもは作詞を終えてからタイトルを付けているが、その時は不思議と何も考えずに「川の流れのように」というタイトルから書き始めており、そのようなものは唯一の作品だという。後に本人は、「多分それはずっとイーストリバーを見ていたからなんでしょう」と回想している。

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