野宮真貴、Night Tempo「東京は夜の七時(feat.Night Tempo)」
今日の曲は、野宮真貴、Night Tempoの「東京は夜の七時(feat.Night Tempo)」。
ピチカート・ファイヴ屈指の名作「ピチカート・ファイヴ」をフューチャー・ファンクブームの立役者、Night Tempoともに新たにセルフカバーした1曲。
野宮真貴は、1990年にピチカート・ファイヴに3代目ボーカルとして加入し、2001年3月に解散するまで、日本とヨーロッパを中心に活動した。
北海道白糠郡音別町(現、釧路市音別町)生まれで、子供時代は父親の仕事の都合で札幌-東京-室蘭-千葉と引越を繰り返した。
10歳の時には既にカーペンターズ、セルジオ・メンデス、ミッシェル・ポルナレフなどの洋楽を聴き始め、その後グラムロック好きになって、ニューヨーク・ドールズがお気に入りになっていた。高校入学後はキッス、エアロスミスなどハードロックを聴くようになって、その頃にはハードロック系のバンドを組んで活動。しかし自分の柔らかな感じの歌声はハードロックに合わず、ギターを担当していた。
高校を卒業する頃の1970年代末にニュー・ウェイヴというムーブメントが到来し、テクノポップが流行り出した時に「やっと自分の歌いたい音楽に出会えた」と思ったという。この時にハードロックに見切りを付け、髪を刈り上げにするなど自分のファッションを髪型から変えていた。テクノポップでは、プラスチックスの佐藤チカに憧れていた。
高校卒業後は英語の専門学校へ進学しニュー・ウェイヴ系のバンドを結成して活動を始めたもののデビューには至らず、専門学校卒業後はコンピューター会社のOLとして働いていた。この頃、渋谷のニュー・ウェイヴ喫茶店、ナイロン100%によく通っていた。
その後、スカウトされて音楽界に入り、ハルメンズのレコーディングにボーカルの準メンバーとして参加した後、1981年、野宮“ロマン”真貴として、資生堂「シャワーコロン」CM曲となったシングル「女ともだち」でデビュー。22歳のときに中原信雄、鈴木智文と共にポータブル・ロックを結成。1988年以降の田島貴男ボーカル時代のピチカート・ファイヴではゲストコーラスとして参加した。
そして、2代目ボーカルの田島貴男がORIGINAL LOVEの活動に専念するため脱退したタイミングで、野宮真貴がピチカート・ファイヴの3代目ボーカルとして参加し、2001年の解散まで10年にわたりメイン・ボーカルを務める。
「東京は夜の七時」がリリースされた1993年は、ピチカート・ファイヴにとって大躍進の年だった。
1993年、4月発売の「SWEET SOUL REVUE」は、カネボウ化粧品「REVUE」シリーズ春のキャンペーンソングという大型タイアップを掴み、スマッシュ・ヒット。バンド名が広く知れ渡るきっかけの楽曲となった。小山田圭吾と共同プロデュースした同年6月発売アルバム『ボサ・ノヴァ2001』はオリコンチャートで最高7位を獲得。12月リリースシングル「東京は夜の七時」は別ヴァージョンながらフジテレビ系『ウゴウゴルーガ2号』のオープニング曲に採用され更に知名度を高め、一気に一流アーティストの仲間入りを果たした。
そんな野宮にとっても思い出深い曲を、2021年12月、野宮真貴デビュー40周年を記念した作品が本曲。
80年代の"ジャパニーズ・シティポップ"、"昭和歌謡"や"和モノ・ディスコチューン"を再構築し、国内外でフューチャーファンクをブームにしたNight Tempoは、もちろん野宮真貴やピチカート・ファイヴの楽曲を好んでおり、今回のコラボではその蜜月っぷりが本曲に顕れている。
「東京は夜の七時」のカバーは世の中に腐るほどあるが、本曲が1番好きだ
ポジティブでキラキラした原曲から、少しテンポが緩やかになり、落ち着いた雰囲気を印象づける楽曲に、野宮のメロウなボーカルがよく合う。しかし、リズムやエフェクト感はあの頃のピチカート・ファイヴが表現されていて、Night Tempoの素晴らしい編曲っぷり。
なんなら原曲よりもこっちの方が好み。
今日は夜の渋谷のある日の光景。
王将の前で抱き合う30代ぐらいのカップル。
その時、渋谷はもう23時。
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