瞑想に知識は要らない 瞑想の知識がありすぎる人ほど瞑想状態に入れていない
瞑想への知識とは
瞑想や瞑想の指導者、グル、達人について知識が豊富でも、瞑想を効果的に扱えているかと言うと話は別です。
瞑想に知識は一切必要ないですし、瞑想状態には知識では入れないことからも、邪魔になるだけです。
知識は追求すればすべてプラスに作用しますが、瞑想は知識で追求しようとするとマイナスに働きます。
頭でっかちになったら瞑想が逃げていく
瞑想状態に深く入れ、なおかつ知識が豊富になることは構わないと思いますが、瞑想状態にいつまでも入れず、瞑想の本質を体感していない代替として、瞑想の知識ばかりを追ってしまうのでは本末転倒です。
瞑想は本来、知識では追求できない次元を扱うものだからです。
つまり、瞑想について「やたら」詳しい人ほど、実は一番の恩恵に預っていないと考えていいかもしれません。
なぜならば、瞑想の効果を体感としてよく知っている人ほど、知識や理論では説明できないことを知っていますし、『考えるな、ただ感じよ』というしかないのです。
そこが瞑想の指導者が多くの人に瞑想の方法を説くときに苦慮するところです。
理性の限界を知ることで瞑想状態に深く入れる
知識は理性です。
理性を超越してこその瞑想状態ですから、理性で瞑想を捉えようとすること自体が間違いです。
感じる、ひたすら感じることのみなのです。
感じた末にあるのは、深い気づきや悟りです。
感じるということは捨てることです。
捨てなければ感じられない。
知識は変に身についたら捨てられません。
知識があるがゆえに頼ってしまい、頭でっかちになって、瞑想の本質の効果を味わえないまま、さらに無駄な知識だけが溜まっていくのです。
絶対的な瞑想状態を味わった人が発する瞑想の知識の本質がわかるのは、やはり同じく瞑想状態の極意を掴んだ人だけです。
まだ深い瞑想状態を味わえない人には本質的に理解できないところがあります。
理をはるかに超越しよう。瞑想にはそれができる
結局言いたいことは、深い瞑想状態に入れば、あとからいくらでも知識はついてくるし、深い瞑想状態に入れないままだったら、いくら瞑想をし続けても徒労に終わってしまうということです。
求めて得られる知識は大したことはなく、求めずして知識を捨てたときにやってくる深い瞑想状態でつかんだ『知識』こそが最高の宇宙の叡智となるのです。