考え事#47 反転授業と一斉授業
精神世界とか哲学っぽい世界の話ばかり書いているが、一応、紆余曲折を経ていまも日々生徒と向き合う日々を送っている。
現在はご縁をいただいた学校で授業を一斉授業形式で回している。
今日はそこで感じたりしていることをメモ的に残しておきたい。
一斉授業の暴力性
一斉授業の形式で完全に授業を回すのは2-3年ぶりだったので、初めのタイミングではかなり自分の中の摩擦が大きかった。何せ、開始終了の挨拶も無し、生徒がどんな学びを実施していても注意をせずたまに絡みに行く的な反転授業をやってきたので、チャイムが鳴るとともに一斉に全員がこちらに向かって起立!礼!が発生するある意味当たり前の環境に自分が怖くなった。
この空気に乗せられて、自分が偉いとか勘違いしてはいけない。一斉授業はそういうアンコンシャスバイアスを生徒にも教師にも仕掛けてくるヒドゥンカリキュラムを内包したシステムだ。
とはいえ、ここで今までの授業形態をぶち込むほどのソーシャルキャピタルもない。
さて、どうしたものか。
完全に、一斉授業のシステムに乗って、壇上の偉い人になってしまえば我が身は守れるし楽だ。
だけど、もうそんな世界線に内面は戻ることができない。それで傷つき、沈んでいく子供達を知ってしまったから。
だから、反転授業を実践してきた自分にしかできない、一斉授業の皮を被った広義の反転授業はどう実践すれば良いのか、というのが僕のイマココの課題ということになる。様々な理由で一斉授業の型から外れることができない場合は、もしかしたら役に立つ話かもしれない。
広義の反転授業の肝
広義の反転授業の肝は、ざっくりまとめると以下と言えるだろう。
・生徒に可能な限り学びの選択肢を渡すこと。
・生徒の選択を尊重し、選択の結果に生徒自身に責任を持ってもらうこと。
・学習内容にとどまらず、何かしらの非認知能力をメタ認知させ、成長するきっかけを作り出すこと。
これらを意識しているので、とにかく授業中に生徒を怒らない、注意しないというのをかなり意識している。
怒ったり怒鳴ったりして生徒を黙らせるのは簡単だ。それをやらない今の僕をみて、やる気がない先生、生徒に嫌われたくない先生、熱意が足りない先生と評価する人もいるだろう。
でも、それで構わないと思っている。表面的な服従は、本当の意味での学力も、非認知能力も低下させると僕は信じているからだ。
目的があると、批判は怖くなくなる。これも、反転授業を試行錯誤する中で得た図太さだ。
反転要素を意識した一斉授業による自身の変容
1番大きいのは、反転授業が相対化できたことだ。昨年まで、一斉授業になんて絶対もう戻れないと感じていたが、一斉授業で反転学習者を育てることのほうがはるかに難しく、難しいことに面白みを感じてしまう自分にとってはこの上なく魅力的な課題ともいえる。
一斉に話している際の自分について、生徒に自分がどう捉えられているか?というのを、講義しながらひたすらパラ認知、メタ認知し続ける時間とでも言えば良いだろうか。
結局のところ、一斉授業のカタチは守るけど、なんかこの先生ちょっと違うし、不気味だなぁ。
とか、
一応、超えてはいけない一線はありそうだけど、一回自分の意見を言ってみようかな?
といった立ち位置を生徒から獲得するのがまず第一歩のような感触だ。
生徒のリフレクションとフィードバックのサイクル
授業形式はともかく、学びの振り返り→フィードバックを返すという流れは相変わらず続けている。このサイクルは一斉授業の形式でもやはり物凄く重要な要素だ。
学び方についてのリフレクション
納得できた内容、できなかった内容についてのリフレクション
短期的なリフレクション
中期的なリフレクション
長期的なリフレクション
自分のリフレクションに対するメタリフレクション
これらをどう書かせるのか、というのも継続して考えている。フィードバックは事実を客観的に伝えることで効果が出ることも、以前よりクリアに認識できてきた。
短い期間だったが、離れたことで一度フレームが外れて、本当に必要なことに注力できているのかもしれない。
かなりメモ的な振り返りだが、どこかでもう少し体系的にまとめていきたい。