考え事#56 時間感覚について③
2回にわたって時間感覚について私見を述べてきた。今回は、はじめに引用した藤子・F・不二雄さんの「光陰」における一つの論についての僕なりの解釈を述べてみたい。
歳をとるほど時間が短く感じる?
今回扱いたい、ここで述べられている論は、
歳を取れば取るほど経験した時間の総和が増えていくから、同じ一年でもどんどん感じ方が短くなる。というものだ。
10歳の人にとっては1年は1/10人生となり
20歳の人にとっては1年は1/20人生となる。
僕もこれによる時間の感じ方の違いは大いに起こりうると考えるが、それに加えて前回記事で書いた自分の仮説も組み合わさってくるのではないかと思う。
加齢によるイベント受信数の減少
前回書いたことを再掲しておく。
大学で相対論を初めて学んだ時に感じたことでもあるが、時間を可変なものだと認知して扱うのはなかなかコツが必要な思考活動である。
さて、歳をとるということはつまり、平均的に言えば自分の趣味趣向や時間の使い方、生活様式が固定化されていくということを意味するだろう。
大人は忙しい忙しいと言いながら、何かに集中することでその対象以外の情報を大量に捨てているともいえる。
僕自身、今日はいま電車に乗りながらこの記事を書いているわけだが、車窓の情報を一切受け取らずにスマホの画面に集中している。30分くらいの乗車時間なのだが、もう気がつくと半分以上の駅を通過したところだ。
いつもの通勤電車でも同じことが言える。缶詰状態でスマホがいじれない時などは、窓の外の情報をひたすら受け取り続けて、駅に停まるたびに駅名と路線図を見比べて、あと3駅か。次の駅は、、、など考える。このように、外界からの情報を受動的に得ようとすればするほど、時間は長く感じるといえないか。
主体と時間感覚
つまるところ、以下の2点に尽きるだろう。
一日の中で集中したり、主体として生きる時間の割合が多いほど、単位時間あたりの受信情報数が減るから物理的時間が短く感じる。
集中せず、受動体として生きる時間の割合が多いほど、単位時間あたりの情報受信数が増えるから物理的時間が長く感じる。
大人になるにつれてさまざまな経験を経ると、比較的多くの領域で自分の知識体系が日常と繋がりやすくなる。
その結果、自分が主体となれる世界のチャネルが増える。だから大人は一つの情報から多くのことを考えることが可能で、その分時間の経過を短く感じるようになる。
子供の頃は、ある意味多くの経験が受動的だ。親にどこかに連れて行かれたり、時間割に沿って何かを学ばせられたりする時間がそれだ。受動的に過ごす場合は、自分の主体となれる世界のチャネルがわからず、どの情報を捨てて良いのかわからない。だからなるべく多くの情報を受信することになり、体感する時間は長くなるといえるだろう。
主体として生きる時間が増えれば増えるほど人生は短く、受動体として生きる時間が増えれば増えるほど人生は長くなる。体感時間というのはなんとも皮肉な仕組みと言えるだろう。