考え事#54 時間感覚について①
少し前に、藤子・F・不二雄さんの漫画「光陰」がTwitter上で話題になった。
作品の中では、登場人物の2人が時間の進み方や感じ方について議論をしている。ユーモアを交えながら、示唆に富んだセリフが多い作品である。以下の記事は非常にわかりやすくまとまっている。
作品の中で語られているのは以下の3つの時間の考え方についてである。
▫︎物理的時間
▫︎感覚的・生理的時間
▫︎絶対時間
僕は、自分で言うのもなんだが、時間感覚がものすごくブレる。バグっていると言っても過言ではない。今回は、上記で言えば感覚的・生理的時間について自分の考察を書いてみようと思う。
時間感覚の基本
生物にはそもそも体内時計と呼ばれる時間の認知機能が備わっている。
その精度や期間の長さは種により大きく異なり、たとえば植物が季節とともに芽を出し、葉をつけ花を咲かせ、果実を実らせて枯れていくという一連の流れや、細胞の分裂なんかも時間の座標軸として捉えることができる。
それなりに複雑な体の分化機能を有する脊椎動物にとっては一日を一周期とするサーガディアンリズム(概日リズム)という、主に日光に基づく体内時計が設計されている。
人間は、火という技術を得た頃からこの概日リズムを外れて、夜に活動する術を得たとも言えるし、電灯の発明によりその傾向は顕著になったと言える。
さらに言えば、航空機のような移動手段の出現は「時差ボケ」なる現象までを生み出し、原初のヒトと比べると時間についてかなりズレた感覚を獲得していると言える。
時間感覚と時間間隔
体内時計は元を辿れば太陽の日周運動(地動説で言えば地球の自転)によるものであるように、時間感覚というものはざっくり言えば周辺環境で起こるイベントの時間間隔(誤字ではなく、Intervalのこと)をどう認知するか、ということなのだと思う。
五感で受け取るさまざまな外界の情報のインターバルに基づき、客観的な時間は定義されるということだ。そこには長い・短いは存在しないように思う。
たとえば、時計の秒針を無心でひたすら見続けて秒数を数える、という体験をさまざまな年齢の時に実施してみたらどうなるだろうか?
より具体的には、5分(300秒)という時間の感じ方について明確に自分の感想を書き続ける、みたいな実験をしたとすれば、その感じ方にはあまり年齢による差は起こらないのではないだろうか。(ここで言っているのは異年齢集団ということではなく、ある個体のさまざまな年齢という意味である)
これはつまり、ある一定のイベント数によって主観的な時間感覚が決まると言えないだろうか。観測するイベントが”秒針の動作”のように等間隔なものであれば、「光陰」に描かれるような時間の変化の差は生じないだろう。という仮説を意味する。
しかし、人間の生活は秒針の動作よりもはるかに複雑で多様なイベントを観測する機会が多い。これにより、時間間隔に個人差や年齢差が生じると考えてみると良さそうだ。
今回はこの辺で。続きはまた次回に書いてみようと思う。