考え事#58 オープンモノローグ
なんとなく毎日投稿を始めて今日で31日目になった。とりあえず2024年1月は毎日文章を書くという自分実験を達成できそうだ。多分、ちゃんと毎日投稿するのは今日までにすると思う。1ヶ月できることは2ヶ月でも3ヶ月でもできると思うから。
今回は、この1ヶ月間自分がやってきたことが自分にとってなんだったのか、リフレクションを兼ねて書いてみる。
時間リソースの投資先としての文章執筆
自分の時間リソースを何にどう分配するのかというのは重要な命題だ。実は僕は、将来的に学校や教育について本を書ける人になりたいな、なんてことを昔から考えている。とはいえ書籍のような文章量を書くのに自分の能力が耐えうるのか?という不安がずっとあったので、その確認の意味も込めて今回は日々文章を書くチャレンジに挑んでみた。
書籍を書くのと比べれば、ここに書いてきたことは裏もとっていないしデータも僕の経験や考えたこと(n=1)で、一次情報を1回か2回くらい捻っているだけなのでそんなに大したことではないだろうと思うが、何はともあれ毎日書くことは思っていたよりも楽しいということがわかった。これは僕にとっては大きな発見だし、やってみないとわからないという大事な手順を踏めたように思う。
なによりも、自分の時間リソースを文章執筆に定期的に割くと自分の生活がどうなるのかというのが実感できた。
具体的には、
・日々をネタ探しの場にできる
・ネタ探しによってちょっとだけ毎日が楽しくなる
・仕事が仕事なので、個人情報由来の出来事を2-3段階抽象化して書く過程で、抽象化の練習になる
・思っていたよりもネタはたくさん見つかる。普段流してしまうアイディアが予想以上に沢山あったことに気付く。
・自分の考えている事を書いているだけなのに、思いのほか多くの人に読んでいただくことができて、かつリアクションもいただくことができる。
特に、最後の1点については特筆すべきことがあるように思う。
オープンモノローグ
こういう形で文章を公開していくというのは、すごくざっくりまとめると駆け出しのミュージシャンの路上ライブみたいなものなんだと思う。僕は特に知名度もないし、いきなりとても沢山の人に読んでいただける、みたいなことがある訳ではないのだけれど、たまたまnoteのオススメとかタグから僕の記事を読んでくださる方がいて、そこに何かしらの効果を及ぼしている可能性がある。
家で独り言を言っていてもそんなことは起こらないし、家族に喋っても広がりは生まれない。(もちろん家族に喋るというのも大事なことだけど)。
YouTubeに授業動画をアップし始めたときもそうだったけれど、オープンに何かを発信するというのは初めはちょっと怖いと感じたりするものだ。僕も実はちょっと怖かったし、本当にこれ公開して大丈夫か?とか今でもよく考える。
でも、内容を精査して公開したものに対して、そんな問題になるようなことは滅多に起きないし、そうなったとしたらそれは大した事だ。
そんなことよりも、誰かとの会話の何かの拍子に自分の書いた記事を思い出して「前にこんなこと考えたんだけどどう思う?」というコミュニケーションが発生したりすることの恩恵の方が遥かに大きい。
ディジタルタトゥーとポートフォリオ
よく、ディジタルタトゥーに気をつけろみたいな論調で、危険性を説くだけの人がいる。確かにそれは間違っていないし、望まない方向で炎上してしまって大変なことになる人もそれなりに存在するかもしれない。ネットはそういう意味では危険ももちろんあるし、付き合い方を考えないといけない。
でも、例えば付き合い方を考えることを辞めさせようとしてはいないか?
どういう使い方が好ましいか、というのは、その人のパーソナリティに依存する訳で、割と誰からも教わることができない領域であるように思う。
自分で何かを出してみて、これで問題が起こるとすればどこの視点から刺されるだろう?と考えることはとても大事な学びを生むし、怖ければ誰かに先に見て貰って公開にするか決めればよい。
僕のこんな文章ですら、あなたが読んで何かを感じてくれたのであれば1つの実績となって自分に残るものになる。
自分のポートフォリオをネット上に残しておくことで繋がるご縁から得られる恩恵の方が、リスクよりはるかに大きいだろう。
そもそも、たいていの人は僕になど興味がないし、きっとあなたにも興味がない。
だからこそ、こういう場でオープンモノローグを残しておくことで、僕の考え方に興味がある人が僕のことを知ってくれるきっかけになるというのはものすごく有難いことだ。
どうせどこかの領域でディジタルタトゥーが入ってしまう世の中だ。入れるなら、自分でデザインした形にしたらいい。自分がちょっと公開するのをためらったりするものには、誰かに何かしらの意味を渡してくれるものだ。