忠敬先生の足跡 1 『4-16・17三保村』
昨年、映画🎞『大河への道』を拝見して、感動しました。伊能図を手がけたことで有名な伊能忠敬の半生を描いたというより、名も無き、忠敬のお弟子さんたちの🗾日本地図にまつわるエピソードを描いた映画でした。
伊能忠敬も凄い方なのですが、忠敬を慕い🗺日本地図を完成させるお弟子さんたちにも拍手を贈りたいです。
伊能忠敬は、延享2年1月11日(新暦・太陽暦では1745年2月11日)生まれです。さすがは商人の家の子らしいですね。
1月11日は、商家では古くから毎年1月11日は「蔵開き」と言って、商家では商売繁盛を祈って蔵を開き大晦日から飾っていた🎍正月の鏡餅を下げて雑煮にして食べた慣習がありました。
ですから、商家には一年初めの大事な日でした。
佐原の伊能家に婿入りした前半生まで記すと50年近い生い立ちを追わねばならないので、ここでは省略して時々に触れていきます。
ご承知の通り伊能忠敬は、🌏地球の大きさを知る手がかりとして緯度の計測を思い立ち、師匠の高橋至時に相談しますが、緯度の計測を江戸市中の狭い範囲では誤差が大きくアテにならないと指摘され、少なくとも蝦夷地ぐらいまでは計測なさいとのお言葉を真摯に受け止め一念発起して出発した時は、55歳でした。
それゆえ、「🌟中高年の星」などと謂れますが、本人はこれからやりたいことを一意専心、没頭出来ることで胸が高鳴っていたことでしょう。
江戸時代も後半に差し掛かろうとしていた寛政12年閏4月19日、(新暦では1800年6月11日)江戸深川の隠居宅を蝦夷地に向かって出発したことは教科書でも習いました。
19歳も年下の幕府天文方・高橋至時《よしとき》に、師事して5年経ち、天文学や算術まで習います。
測量に必要な測量技術は、既に習得していたことは伊能忠敬の救いとなります。
伊能忠敬の後半生の測量にまつわる場所を訪れ、彼の息吹きを感じたく測量日誌を読み解こうとしましたら、大変便利なサイトがありました。
『伊能忠敬e史料館』です。
第一測量調査から第九次測量調査に加えて支隊の調査まで網羅している優れモノで、地図表示をポチッとすると参考ではありますが測量場所や宿泊先まで判明します。
伊能忠敬の後半生を余すところなく表になり、旧暦・新暦も表示されています。
これほど素晴らしいサイトを利用しない手はありません。
そこで、自宅近くや勤務先に近いところから、勉強していきます。
一番最初は、自宅に近く通っていた高校にも近い場所から訪ねてみました🙇🏻♂️
当時は現代と違って二食で一日を過ごすことが多い中、やはり測量や現調もあり、中飯といって現代の昼食にあたる中飯を食していたことでしょう。
とあることから、伊能忠敬は測量の合間に、羽衣の松の伝説がある三保の松原も鑑賞されたことでしょう🤔
伊能忠敬は測量の合間に、土地土地の観光名所や神社仏閣にも参詣しています🙏🏻
測量は第一次から第九次にまで及びますが、出発前には必ず、隠居宅近くにあった深川八幡宮に、旅程の安全祈願に立ち寄ってから現地に向かっていますので、彼の測量を始める前のルーティンだったのでしょうね。
伊能忠敬が三保半島の測量をし宿泊したとされる場所は、三保の松原のそばにある⛩御穂神社の参道にあたります。
宿舎の支配は、藤左衛門なる人物がお世話をしたのでしょう。伊能は大変まめに、全測量の宿泊先の宿舎の支配人の名を書き留めています。
つぶさに、記録を残すことの大切さを彼は商売の中から身に沁みて感じとっていたのでしょうね。
伊能忠敬e史料館のInoPediaが示す地図によれば、この辺りの塚間を中心に測量したことになっています。サイトにもあるように、試験的に宿泊地を示し正確な位置ではないとの注意書きもありますが、この⛩御穂神社の参道は当時は賑わいもあったようですので多分、当たらずも遠からずというところではないでしょうか?
この参道の先に塚間の渡しがあり、現在では水上バスの船着場になっています。
富士山🗻は、右側に位置します。
塚間の渡しは、古くからあり鎌倉時代の寛元3年からあったと🪧看板に記載されていました。
寛元3年(1245年)です。家に帰って調べてみると、鎌倉将軍・藤原頼嗣が太田宗高へ御穂神社の神役と息津駅(現 興津)の船司と清見寺関守の役に任じていますから多分、この辺りでしょう。
88代後嵯峨天皇を九条道家が譲位させ、後深草天皇が誕生した年です。
塚間の渡しがある船着場にある🪧。
🪧には、三保の領主・太田家は徳川家康からも庇護を受けて107石の石高を食んでいたことが判ります。1石は当時、大人一人一年分の米の量で、百人分の賄い料をいただく〝お墨付き〟を家康から頂戴していたことになります。
看板🪧に記載されている「浜御殿」は、清水の桜橋の交差点、通称〝記念塔交差点〟から港橋方向に下がる途中にある石垣の教会⛪️がその「浜御殿跡」です。
🚌バス停で言えば、「八番団前」となります。この浜御殿は家康が🗻富士山を眺めるだけでなく、江尻湊に出入りする舟を見張った番所機能も兼ねていました。
この🪧には記されていませんが、徳川家康は天正10年(1582年)4月に、武田勝頼を自刃させた天目山の戦いが終わった後の織田信長を家康がエスコートし、三保の松原を信長に鑑賞させました。
今は陸続きになって三保半島になっていますが、室町時代には小島ではしけで渡ったと『信長公記』は綴っています。
その時に家康は三保の領主・太田家に世話になったからなのだと、私は愚考してます。
その後、伊能図を拝見しますと三保はちゃんと半島になっていますから室町から江戸時代にかけて、安倍川の土砂や砂が堆積し陸続きになったと思われます。
再び、宿泊地とされる場所に戻って来ました。
ここから微かに富士山🗻を眺めることが出来ます。旧暦三月は現代の🗓暦に直すと5月のGWにあたり、初夏を思わせる穏やかな一日の中、測量に三保の松原、富士山を鑑賞したことが想像出来ます。
この辺りで写真を撮っていたら、ノラ猫🐈の惰眠を邪魔してしまったようです😅
安眠妨害でしたね😅
日記には、⛩御穂神社参詣が記されていませんが、伊能忠敬は⛩御穂神社にも参詣したかもしれませんね。
三保半島の先、塚間という場所から御穂神社まで真っ直ぐに参道が伸びていました。
塚間は江尻と清水の町が言われていた頃、渡しの小舟も往来していました。
この日は中飯を清水湊でとった伊能忠敬測量隊一行は、三保の松原で羽衣の松を鑑賞したのも休憩とリフレッシュ効果を期待したからかもしれません。
測量は計量の誤差との戦いです。緻密な作業なので、息抜きも大切なモチベーション堅持のレクリエーションでしょう。
私も学生時代、東海大学 故石丸煕教授のご指導の許、栃木県益子町の高館山城郭調査に3年間従事いたしました。
トランシッド、レベルなど測量機器を用いた城郭測量調査でも時折、誤差が出ます。
そんな時は必ず、石丸教授に相談し、先生や測量隊の見解や解釈がまとまらない際には、再び現地に赴き、再調査しました。
恐らく、伊能隊にも同じようなことが時々起こったはずです。
測量する時の天候不順や隊員の体調のコンディションの他に、心理学で勉強した「ゲシュタルト崩壊」です。
□ ゲシュタルト崩壊(Gestaltzfall)
戦後1947年心理学者のファウスト(Faust)が提唱した一種の精神減衰や障害のことです。
同じ文字や図形を長く接していると、健全な人でも全体像の認知や把握が鈍り、ミスを起こしてしまう現象です。
未だ克服方法は現代でも解明されていません。
最後にこの塚間地区でとても有名な和食店をご紹介します。
『五郎十』です。ネットでも話題になり、全国から来客があります。
先ずはこのロースカツ定食をご覧下さい🙇🏻♂️
私が伺わせていただいた際にも、川越ナンバーのオートバイや川崎ナンバーの車がありました。
このボリューム感と美味しさ、説明不要なカツです❣️茶色い食べモノが大好きな方々に、お薦めのお店です。
塚間にお越しの際には、ぜひお立ち寄りになってみてください🙇🏻♂️
この測量の翌日は☔️雨だったようで、同地・同宿に逗留しています。やはり、雨では紙も濡れるし、測量の計測値にも誤差が生じやすいのでしょう。
伊能忠敬測量隊は、☔️は逗留すると決めていたようで、各所で「雨天逗留」と、あります。
この日の宿泊先も藤左衛門の宿で、連泊したようです。ですが☔️だからといって宿でゴロゴロしていたわけではありません。
記録していた測量結果の方位や歩測、測量機器のデータをまとめて下図作成をしていました。
☔️雨ということで連日の天体観測🔭も行っておりません。
これから少しずつ伊能忠敬の足跡👣を追っていけたらと思い、投稿します。
(続く)