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📖『吾妻鏡』をおさらいする
👨🎓史学科を卒業して、ちょうど40年。
専門は中世史。
中世史は『吾妻鏡』が教科書的な存在でした。
東海大学 文学部史学科日本史専攻で私は、中世史を専攻しました。
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中世史は北大から見えられた鎌倉史学研究の第一人者のお一人、故 石丸煕教授に教示。
石丸教授のご専門が『吾妻鏡』による鎌倉史学。
当時は現代語訳が出版されていなかったため、漢文・古文の世界のようで、苦労しました。
中世史概論は、永年『平家物語』を研究して東大を退官なされた阿部教授。
ご両人とも、旧帝大系ばりの厳しい授業で、付属高から特別推薦で入学した私は、授業のペースに着いていくのが精一杯で、4年間で無事に卒業することが至上命題でした😅
しがない貧乏教師の息子、留年や卒業延期は許されません。
石丸教授の『吾妻鏡』の講義もほとんど失念して、亡くなった父には申し訳なく来年、父の三十三回忌を迎えるにあたり、改めて勉強し直してみたいと強く思い、📖現代語訳『吾妻鏡』を一冊ずつ購入し始めました。
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『吾妻鏡』第一
治承四年(1180年)庚子
四月小
九日 辛卯
から、記述が始まるのは、ご承知の通りです。
治承四年四月は小の月で、晦日は29日。
その4月9日は、新暦で1180年5月5日 月曜日にあたります。
治承4年の曆では、四月五日 丁亥 が立夏。☀️太陽の黄経は45°、曆の上では夏の気配を感じられる頃ではありますが‥‥。
5月5日の京都の平均気温は17.5°。曆の上では夏の気配を表していますがやや肌寒い。
ところが興味深い📗本を見つけました😎
『気候で読み解く日本の歴史』 田家 康 著
日本経済新聞出版社 発刊
ここには、1160年代終わりから🌸桜の満開日が遅くなる傾向があり、4月20日過ぎであったと、記しています。冷夏による🌸桜開花に影響が出ていたのではないだろうか⁉️
ところが、一転して治承4年(1180年)になると、🌸桜の満開日は4月7日と早まったのは、治承4年は現在のような温暖化に転じ、春先の温暖化が降水量の減少を招き、翌年の養和の飢饉をもたらしたのではと、著者は推測されました。
ご興味がある方はご一読をお薦めします。教科書的に覚えるだけの日本史ではなく、科学的根拠に基づいた研究の大切さをご教示しております。
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治承4年4月7日の🌸桜満開日は、小倉百人一首の選者・藤原定家の📖日記『明月記』に記されています。
治承4年4月7日 同日条
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現在では、大変便利な
📖『古代中世曆』と言う書物があり、推古天皇元年(593年)正月朔日から、新暦との対照日と干支が判ります。
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因みに、推古天皇元年正月朔日は、新暦593年2月7日 土曜日 壬寅。
正月は小の月ですので、晦日は29日。
便利な時代になりました。
また、最近ではPythonプログラミングを活用すれば、閏年判定も可能になるとか。
if文を使い%演算子を用いるようですので、もう少し理解し会得出来たら、披露させていただきます。
それはさており、
治承四年四月九日に、入道源三位頼政卿は後白河院の第二皇子・以仁王(高倉宮)と、平清盛討伐を協議し、以仁王が令旨を都で発給されたことから、記述が始まります。
令和4年の NHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、後白河院を西田敏行さんが演じておられます。
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源頼朝から
👺〝日本国第一の大天狗〟
と、揶揄されたほどの御仁ですが、この謎解き天皇を作家・井上靖さんが執筆しています。
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作家・井上靖さんは、
『院はもともと誰をもお恃みにはなってはいらっしゃらなかった』と、記し
万一に対する措置を幾重にも貼りめぐらされた、と。
慎重な上に老獪な帝であったのでしょう。
そんな後白河院の皇子たる以仁王が清盛(相国入道)の討伐を協議したのが77歳になっていた風流人・源頼政です。
『詞花和歌集』春 十七に、
「深山木の その梢とも見えざりし 桜は花に
あらはれにけり」
と、🌸桜が咲き誇って際立つ美しさを詠める文部両道の武人でした。
近衛天皇の国母・美福門院に慕われ昇殿を許され、武士として明るい将来の活躍を咲き誇る🌸桜に擬えて、詠う武将でしたが、以仁王の叛乱はご承知の通り、呆気ない幕切れでした。
故 石丸教授は、歴史は座学だけでするものではなく、現地を歩き肌で感じ空気を読む実学の精神を強調しておらました。
これからも折をみて、三嶋、伊豆韮山、鎌倉へとフィールドワークに出掛けて感じたことをここに、記して参ります。
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補記
頼朝挙兵の地、伊豆韮山。
🚃伊豆箱根山鉄道 韮山駅🚉 駅前にある喫茶店。
気になっていたので過日、入店し腹ごしらえ😋
マダムがお作りいただいた🍝ナポリタン❣️
美味しゅうございました🙇🏻♂️
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伊豆箱根鉄道🚃 韮山駅🚉広がる鎌倉史学。
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