『鎌倉本體の武士』 ー梶原山に登ってー
2022年4月17日 放映のNHK📺大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で、🎲双六に興じていた上総介広常の隙をつき、梶原景時が一刀のもと切り捨てて‥‥。
梶原景時に由来する「梶原山」が静岡市清水区大内・瀬名にあります。 標高279m。
「夕陽無山」と呼ばれていた小高い丘は、いつしか「梶原山」と呼ばれるようになりました。梶原景時父子の最後の地、この梶原山の山頂近くで自刃、
正治2年正月二十日 丁未 (新暦1200年2月6日 日曜日)のことでした🥲
山頂直下に駐車場もあり、それほど高い山でもないので日中はハイキング客で賑わいます。山頂直下には駐車場もあり、家族連れやカップルも夜景を観に来ます。
〈 S字に弧を描いているのが東名高速道路で対岸に日本平 〉
🚗で来る際は、瀬名にある今川家臣・瀬名氏に所縁のある光鏡院の脇から伸びる農道を東に登ります。
🚗で上がれば駐車場から5分程度。
そこで、JR東海道線 清水駅🚉から静岡駅行き北街道経由の🚌バスを利用し、清水区大内側から登っていきます💦
🚌は、清水駅を出発すると間もなく、右折し北街道に繋がる高橋街道を進みます。
高橋街道は鎌倉時代、旧東海道の前身となる旧道です。頼朝が街道を整備しました。
⛩秋葉神社を超え高橋街道筋に進むと、梶原景時の所縁のある高源寺を通過します。
🚌バスは静かに西に向かい、高橋の交差点を過ぎコンビニ「ミニストップ」店がある辺りに、梶原父子33人の首が晒されたという場所を何の案内もなく、通過していきます。
高橋街道から旧東海道だった北街道に🚌は西に向かい、🚏「大内観音入口」で下車します。
バス運賃250円。(令和4年3月現在)
ここから、北に向かうと⛰山の中腹には霊山寺の本堂が見えますので、それを目印に入山します。
※霊山寺(れいざんじ)と、読みます。
入山して15分ほど葛折りの急登の先に、霊山寺の見事な仁王門がいきなり見えて来ます😎
霊山寺は奈良時代の749年、行基によって開山された古刹で別名、大内観音と呼ばれています。
標高150m。高野山真言宗のお寺です。
ここの本堂で、一休み。
欄干に野鳥が止まり、すぐそばまで来て囀ります😍
ここから、また15分ほど登って尾根に出るとそこが一本松公園。
見事な🌸枝垂れ桜が咲いています。私が登った際は未だ、満開ではありませんでした。
この下辺りが西奈地区です。
一本松公園から25分ほど南に下ると、梶原山山頂の東屋があり、ここに石碑があります。
この隣りには、一際立派な🪦石碑があります😱
鎌倉本體の武士とは、鎌倉御家人の武将の中でも武士中の本物の武士という意味です。
瀬名梶原会の岸会長にご教示いただきました🗣
この石碑は、わざわざ石橋山合戦があった湯河原・早川間の石材を切り出し、字は鎌倉五山筆頭・建長寺管長によるものだそうです。
頼朝が正治元年正月十三日 乙巳 (1199年2月9日 火曜日)に亡くなった翌年の正治2年正月二十日 丁未(新暦1200年2月6日 日曜日)、この梶原山で自刃します。
山頂直下の駐車場から階段を降りていくと、梶原父子が自刃する際に乱れた髪や鬢を整えるため、湧水を使ったとされる「鬢水」跡。
頼朝から拝領された🐴名馬・磨墨が、空腹に堪え兼ねて笹をむしったとされる「駒喰いの笹」跡もあります。
※『平家物語』でて来る宇治川での名馬磨墨と池月の先陣争いに登場する磨墨の四代目だそうです。
正月二十日の深夜に京都へ向かうのは偶然ではなく当時、正月からの寒稽古をし二十日が休みであったことから、梶原景時はその間隙を縫って西へ向かいました。
現在の清水・興津にある臨済宗妙心寺派の名刹・清見寺に「清見ヶ関」があり、ここにたまたま居合わせとされる地元御家人・吉川友兼、矢部、入江、三沢氏らと通せ、通さないで刃傷沙汰になったと📖『吾妻鏡』は記していますが‥‥。
66人もの御家人から讒訴され鎌倉を追われた梶原景時公が再起を願い京へ向かう清見ヶ関で待ち構えさせたのが、鎌倉殿の13人の北条時政と大江広元だったと、私は推察し、伊豆文学賞にサスペンス調の題材で小説を執筆し、応募しましたがこれまた落選🤣
断定的な筋書きや稚拙な表現が落選に至ったと愚考しております🙇🏻
梶原平三景時。
歌舞伎俳優・中村獅童さんが抑えた演技で、梶原景時の苦悩も見事に演じておられます👏🏻
彼の本所は相模国一宮・⛩寒川神社の一帯です。
⛩寒川神社から👟徒歩で25分ほどに梶原景時の梶原館がありました。
寒川神社の隣りには、興全寺という寺院があります。昭和9年辺りでは養豚が盛んになった寒川は、このお寺に、供養塔と石碑を建てました。
寒川でトンカツの名店「水龍」さん。
柔らかくてとっても美味しい上に、ヒレカツ定食1400円という安さ❣️
美味しゅうございました😋
⛩寒川神社から徒歩30分。途中にあったので迷わず入店です。
食べ終わってひたすら南下し、JR相模線の線路を渡り再び南下して、到着です。
旧大山街道沿いです。
目の前の道路はその昔、大山阿夫利詣での参道ともなり、大山に向かっていました。
寒川梶原会の入澤さんに以前、ご紹介いただいた七人の祠も再び、観て参りました🙏🏻
梶原景時が亡くなってから、鎌倉には不幸続き。そこで鎌倉幕府は、怨霊の祟りを鎮めようと1250年より、毎年7月の盆に、鎌倉・建長寺で梶原景時施餓鬼会の法要が営まれています。
補記
梶原平三と名乗るように、元々は平家に与していた大庭景親配下の武将として石橋山合戦に参戦し、ここで惨敗をした頼朝が山中の岩陰に潜んでいるところを発見しますが、見逃します。
ここから両人の関係が始まることは、有名ですね。
梶原景時公に纏るエピソードは多いので、語り尽くしたら一冊の📗本になってしまいますので、ここでは殆どを割愛し、私が注目したエピソードを一つ。
軍監として九郎判官義経と同道した景時公。この二人、水と油で反りが合わない。二人の対立を決定的にしたのが、元暦2/寿永4年 2月16日 庚午 (新暦1185年3月19日 火曜日)、義経軍は屋島の平家追討のため、摂津国渡邊(大阪府大阪市福島区)に到着します。
『平家物語』逆櫓
「元暦二年十六日、渡邊・神崎両所にて、この日ごろそろへける舟ども、ともづなすでにとかんとす。
をりふし北風木ををッてはげしう吹きければ、大浪に舟どもさむざむにうちそむぜられて、出すに及ばす。修理のために、其日はとどまる。渡邊には、大名・小名よりあひて、
「抑ふないくさの様はいまだ調練せず。いかンがあるべき」と評定す。
梶原申しけるは、「今度の合戦には、舟に逆櫓をたて候ばや」。判官、「さかろとはなんぞ」。
梶原、「馬はかけんと思へば、弓手へも馬手へもまはしやすし。舟はきッとおしもどすが大事候。ともへに櫓をたてちがへ、わいかぢを入れて、どなたへもやすうおすやうにし候ばや」と申しければ、判官の給ひけるは、「いくさといふ物は、ひッとひきもひかじと思ふだにも、あはひあしければひくはつねの習なり。もとよりにげまうけしてはなんのよかるべきぞ‥‥」
ここで、出陣を控えた義経軍は🌀暴風雨に見舞われます。屋島に水軍を擁する平家軍に、時を待たず勢いに任せて出陣するか
🌊暴風雨をやり過ごしてから満を持して平家水軍に挑むか🤔
世に言う「逆櫓の松」⚡️論争です。
戦いは勢いだから強行突破を主張する義経。まして、船首・船尾に櫓を付けて兵船を後進も出来るようになどの臆病者の小賢しい戦術。
いやいや、平家水軍は数・精鋭共に揃っているので、🌀暴風雨をやり過ごし小舟の船首と船尾に櫓を付け兵船の操舵を扱い易くしてから出陣すべき、と主張する梶原景時。
二人はやがて、抜刀するまで発展してしまうほど、対立してしてしまいます。取り巻きが両人を引き離し決着がつかないまま義経は独断、僅かな手勢で🌊大浪の中、出陣する。
この「逆櫓の松」の逸話を後世、持ち出し予想外の🌀暴風雨の中で出港し、鳴海、村木砦の排除に向かうのが織田信長です。
天文23年1月22日 癸亥(新暦1554年2月23日 金曜日)、愛知県知多半島の付け根にあたる鳴海の攻防は、後の桶狭間合戦の前哨戦ともなる戦いでした。
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