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あの日、あの街で、彼女は。〜築地駅〜

「美味しい親子丼のお店があるから、お昼前後でアポ取りなよ」

築地なのに、親子丼?海鮮丼じゃなくて?彼女が築地に訪問することを話すと、すかさず親子丼をおすすめしてきた先輩。

海鮮のイメージを牽引する築地市場は、「築地駅」と「築地市場駅」の中間にある。築地駅は、中目黒駅〜北千住駅まで22駅ある東京メトロ日比谷線の真ん中11番目。徒歩圏内に銀座、中央区のど真ん中。

初めて降り立ったとき、あまりにも見慣れたビジネス街の装いで、わくわくした気持ちがどこか恥ずかしくなった。キョロキョロと見渡す彼女からは、田舎者のオーラが漂っていた気がする。いや、スーツ姿だったから、単に方向音痴な人か。バレてないといいな。

「見慣れたビジネス街の装い」を、訂正する。築地本願寺が視界に映る。遠目から見ても感じる異国の雰囲気。そうかと思えば、道路を挟んだ向かい側には小学校がある。校庭で行われる体育の授業を何度か見かけた。子どもたちのはち切れんばかりの声に、ひっそり元気づけられていた。

訪問と電話とメールを何ヵ月も続けて、やっとお取引に繋がった新規のお客さん。少しお堅めな企業で、現状を打破するまでに相当な時間がかかった。引き継いだお客さんとは異なり、0から一緒に築いていく醍醐味がある。担当者は少し歳上のお姉さんと言ったところ、落ち着いた柔らかな雰囲気が印象的だった。

「はじまり」に比べて、「おわり」の瞬間はあっけない。急遽、名古屋支店に転勤になるとのことだった。まだ取引から1年も経っていないのに。転勤先では部署も変わるため、当然いまの業務からも離れる。同じ部署だったら、彼女がリモートで対応できたのに、それすらできない。お世辞ではない「残念です」の言葉に、精一杯の感謝を込める。

想像もしていないことで、放心状態。まだ先のことを考える気分にならなかった。ビルを出て、ブラウンのチェスターコートを羽織る。ため息が止まらない。白い息に混じってお腹がぎゅるぅ〜と鳴った。本能には逆らえない。

あえて調べずにふらっと歩くことにした。「黒豚餃子」と力強く書かれたのぼり旗が目に入る。絶対に美味しいやつ!と即決して店内へ。カウンター席に座って、メニューを見ながらにやにやしてしまう。水餃子が大好きな彼女。欲張って、水餃子と焼き餃子がセットになってる定食に決めた。

美味しそうでしょ?お酒が飲みたくなる絵面。

とても美味しくて、今度は幸せで思わず漏れちゃうため息。お酒を飲みたい気持ちをぐっとこらえて、白米を頬張る。今度はお昼時じゃなくて、直帰できる時間帯にアポを取ろうかな。

ため息で逃げるような幸せはいらない、海鮮丼も親子丼も食べずに餃子定食を選んだ彼女を思い出す。

あの日、あの街で、彼女は。


*プロローグ

*マガジン

※基本的には経験上のノンフィクションですが、お客さん情報の身バレを防ぐために一部フィクションにしています。

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