人類だった。
何故同じ過ちを繰り返すのだろうか。
人類を槍玉に当てて批評的文章が書かれていく出だしの冒頭で大体お目にかかるだろう文句である。
朝目覚めてスマホを操作しはじめて、頭に浮かんだ言葉だ。
つまり、自分は人類だったのだなと改めて理解させられた。わからされたのだ。
画面にうつる、更新を押す前のハッシュタグ入力フォーム。
またか。
やってしまったのか。
これはあれなのか、土曜日に更新をしなさいという神さまの暗示なのだろうか。
しかし、坂口の後ろには仏さまが「2回までですよ?」と荘厳なるほほえみをこちらに向けられている。線の細い目が、次はないぞと重圧を秘めている事を感じている。
朝から神と仏の呼び出しをくらう。
そして仕事に行くまでの間に追記をしている。
次に更新が遅れた場合はきっといつの間にか土曜日のBOYCOTTとして変化していることだろう。
そして本題に入ろうと思う。
タイトルは関係がない。今朝の過ちがタイトルを変えさせたのだ。
本来のタイトルはこうだった。
『変わったのかもしれない』
何が変わったのか。
別に坂口が変わった、というわけではない。(いや、変わったところはあるかもしれないけども
最近ハンズフリーで通話する人が増えてきたと思っている。
ハンズフリーは説明するまでもなく、専用の、もしくは従来のイヤホンを使って電話機を耳にあてて話す従来のスタイルではなく、イヤホンマイク越しに会話をするようなものだ。
電話を手で持つ必要が無いので、手が空く。
荷物持ちながら、作業しながら会話できる機能である。
大変便利であり、今や普通に見られるようになったと思う。
ところで坂口はこのハンズフリー機能を使っている人にたまにびっくりしてしまう。(本当に使っているのかは藪の中であるが
使っている本人は普通に通話しているだけなので成立しているのだが、話が盛り上がっているようだと独り言で盛大に盛り上がる人がいるようにしか見えない。
大体若者が多いように思う。まぁイヤホンがついてるかどうかで見たらわかるのだが。
髪や服装で隠れてたりするのでパッと見ただけではわからないことの方が多い。
そして坂口の暮らしている地域では独り言、というより明らかにもう1人の見えない誰かと喋っている人を見かけることが多い。
はじめに断言したいのはこのことについてあからさまに蔑視するような意図を組むつもりではない。(しかし、書くには触れなくてはいけない
本人自身の見ている世界は、他人は見ることができない以上は"あるのかもしれない"から実際に"ある""いる"とするには難しい。
とにかく本人にしか認識できない世界というものが存在する。
この両者をひとめで判断するのは難しいと思っている。
一昔前は後者の独自の認識世界を理解の難しいもの=異質なものとしてとらえている印象が世の中にはあったと思う。
実際に漫画の世界では、独り言を喋っている登場人物(実際には霊体だったり精霊だったり、人の目に見えない存在と対話しているといったシチュエーション)で、通りすがりの親子が
子ども「1人で喋ってる、、」
親「変な人だから目を合わせないで、、」みたいな会話のやりとりが大体行われている。
こうした表現はまさに見えない誰かと話す人を異端とする共通の理解から生まれているものだと思っている。
別にこれについて肯定否定を書き連ねたいわけではない。
ハンズフリーを受け入れている層は、この異端シチュエーションについてどう思っているのかということをたまに考える。
勝手な想像ではあるが
よくも悪くも"他者に興味を持たなくなった"のではないかと思っている。
他人を好む、嫌うのはいずれも興味を持たない限り成り立たないものである。
もうちょっと書きたいが仕事の時間が迫っているので終わってから追記することにする。
よいしょ。
以下23:00追記
対象をとらえる必要があり、そうする為のトリガーが興味を持つということになる。
となれば世間が多く認知しているであろうあの漫画的表現に則って、必要以上に声を出さないもしくはそもそも通話をやめるのではないだろうか。
しかし今もなおハンズフリー通話を見る機会が増え続けるということは、興味を持つ段階に至らない。
ある種の寛容さのような捉え方もできるが、どちらかというと興味の無さによる意識外の情報を遮断してしまっているように思える。
つまり、今の社会では"興味の無い情報は無いのと同じ"という色が強くなっていっているのではないだろうか。
令和の不思議。坂口はいったいいつの時代に取り残されているのだろう。今は8月幾100日をむかえているのだろう。
足元には終わらない日めくりカレンダーの紙が積もっていくだけである。エコじゃねぇわな。