たのいけのあと その③
たのしそうなお池の後書き、略してたのいけのあともその③まで来ました。
今回で終わります。
御柳編
斑池町で起きた事件がベースの物語が矢島編だとすれば、一人の女性に焦点をあてた物語が御柳編、となります。
一応終盤で二つの物語が混ざり合って、一つの結果が生まれます。
何が正しかったのか、何が間違いであったのか、当事者がわからなければ覗き見ていた神様でさえわからないのではないでしょうか。
御柳編は中島敦の『山月記』を題材につくりました。
山月記と言えば虎になってしまった李徴ですね。
作中では虎になった理由がはっきりと明言されていませんが、他者に傷つけられることをおそれた「臆病な自尊心」と恥をかかないように横柄にふるまった「尊大な羞恥心」という自意識が李徴を「醜い」虎に変えてしまった…(強い自尊心が自分の醜さを認めてしまった故の)
というようなのを学生の頃、口を開きながら催眠波を放つ現国教師の怪技を掻い潜りながらノートをとった憶えがあります。
人間というのは自分の事をわかっているようでわかっていません。
自分は絶対に詐欺に騙されないぞ! と言う人程騙されやすいとはよくいうもので、自分を律していると思っている人ほど矛盾や隙間に弱いのです。
固い自信の影には綻びがあり、その影に意識的、無意識的にも怯えてしまうものです。
善と悪を分けることは神様の仕事なわけです。
人間である私たちは善悪を考える事を無理にしなくていいんです。
無理するから、綻びに足元を掬われてしまうんです。
ここまで書いていて変な宗教団体の説法を説いている気分になってきました。遺憾です。
そうです、ここで説法を利用して人間を何かに引きづり込もうとするのが紛い物の神、変な宗教の教祖です。
神様はただ、変化を楽しむだけですから。誰かを救おうなんてこれっぽっちも思ってません。
救われたい人が勝手に救われてるだけですし、救われない人はただただ救われないだけです。
たのしそうなお池の登場人物の中で神様は保川だけです。
ピンクトラ
御柳の中の無意識的な何かです。
一応演出をつけていたときは「御柳の別人格が自我を持った、みたいな感じにはしないでほしい」と言いました。
なかなか無茶な事をいいました。意識ってなんやねん、ワレェ。ですわ。
ちなみになんでピンク色だったか(矢島編のピンクゾーもピンクですね)ですが
精神的な要素の強い部分に関してはピンクを強調したかったんです。
強いピンクって、自然にはなかなか見ないから、なんか非現実的な気持ちになりませんか?ならんか?
でも光の三原色の定義ではピンク色(マゼンタ)を出すには2色組み合わせないといけないし、そもそも色の三原色の定義でいうマゼンタは緑色の光が反射して見える色材がピンク色に見える…ということだから、普通ではありえない存在なのだ!!!
っていう、ね。こじつけですか。
まぁ、Oンボさんに見習って、ピンク色をスピリチュアルよりにさせました。
かおり付のタバコ
御柳の持ってた嗜好品です。わざわざ海外から取り寄せたそうです(山中さんすげぇや
台本には元々煙草とは明記していなかったんですが、役作りの過程で追加されました。
嫌煙家の方は申し訳なかったですが、街にリアルさを求めた結果、におい(嗅覚)も役に立つ、ということがわかりました。欠点としては持続性がないって感じですね。すぐ消えちゃう。
ニワトリ、こけこっこー
御柳のトラウマ…と、そこまで強いものでもありませんが、引っかかっていた過去の出来事です。
シーン的に断片的においていったのでわかりにくい部分ではあったかもしれません。
保川と御柳が昔、鶏の世話当番だった時に鍵をかけ忘れて、鶏が野良猫に襲われたという事件がありました。
保川だけが「仕方ないよねー」という態度だったことが御柳にとっては保川に対して、引っかかりの一つになったのです。
「仕方のない」という意味合いの正しさは、言った本人にしかわかりません。
その言葉を聞いた人達はどういう反応をしたのか? っていうのは御柳がいい例なんですが。
言葉がもう少しあれば何か一つ変わったんでしょうかねぇ。
「許して、忘れてみてください。そしたらまたいつもの日常です」
許して忘れる、という言葉は聖書でも登場しますし、坂口のバイブルでもある『ぼのぼの』で登場するシマリスくんのおにいさんの名言でもあります。
ほんと、これだけで世の中のほとんどのイザコザが解決するんじゃないですかね。
保川はこの言葉と、単純な「面白さ」を求めて生活しています。
徹底的に傍観者になることが神様という位置づけの最適解です。
御柳トラ
稽古中では「みやトラシーン」と呼んでいました。
保川に襲い掛かった矢島に飛びかかったのは、どこか様子の違う御柳でした。
作中最後のW主人公干渉シーンです。ギッタンギッタンに矢島、やられてますが。
物狂をイメージして、ピンクトラのつけていた面を被らせました。
日本史でも気がふれたことを「物狂」と呼んでいましたし、能などの芸能の中にも「物狂能」という言葉があります。
勝手な解釈ですが、「気がふれた」という人も、その人がみている、感じている世界があって
その世界の移り変わり(現実だった視界から物狂に陥った後の視界になるまで)ってどんな感じだろうかな、と
そういうのを意識しながら御柳編のシーンは作られていたりします。
以上、たのしそうなお池の長い長い後書き的文章でした。
映像化しません、と言っておきながらアレなんですが一応記録映像は撮っているんです。
それでふと思いついたのですが、街の監視カメラからの定点映像として見ているような感じになっても面白いかな、と今後の創作活動のヒントになった気がしました。
たのいけは、出来るならまたやりたいなと思えるようなものになりました。
改めて関わっていただいた方、観ていただいた方々、ありがとうございました。