とらわれっち その2
文章がとっちらかって、暴れたおして、挙句の果てに窓から飛んでいってしまったとらわれっちの内容を今ようやっと首根っこ掴んで戻ってきた次第である。
つまりは続き。
前回の内容をざっくりにすると、「とらわれ」という楔が呪い(まじない)となっていて、坂口はこれを題材に創作をしている
だかなんだかそういった内容だった。
今回はこういったことを書く
・「とらわれ」というステータス異常
・解呪する為には
・責任という「とらわれ」
・「とらわれ」というステータス異常
分かりやすく表現するとしっくりくる、ステータス異常。
ゲームで定番の存在、体調よろしくないの可視化である。
言った言葉が、行為がずっと心から離れないのはそれはもう呪い(のろい)だろう。
そして捉え方によっては加害者、被害者(この場合は相手と自分と言い換えた方がいい気もするけれど)お互いに楔がつく。
やってしまった後悔かも知れないし、正当化する自分への疑心が心をチクチク突いているのかもしれない。
されてしまったショックもあるだろうが、もしかしたらやり返したい、復讐するための弾を込めはじめたかもしれない。
大切な人との間に授かったこどもなのだから、守るしかばう。健康と無事を祈る。自らを犠牲にしても子を思って、、、
楔にはほぼ大半を占める程の嫌属性?が含まれているように思う。
きっとその人が紡いできた軌跡に対して、楔を認知してしまうからには陰を感じているのだろう。
何故当の本人は受け入れているのだろうか、それを是としている人がいるのだろうか。
それを知るには「解呪」である。
・解呪する為には
当の本人はその状況を受け入れてしまっている。何故か。責任があるからだ。
その道を選び、その過程に得た物事すべてに紐付く責任。責任がその人の精神と共生しているからだ。
責任は強い。生きていく上で増えた重みのある精神、こころを支えるくらいの力がある。
(その責任が揺らぎ、こころが潰れてしまうことがあるとするならばそれが楔に見えてしまった時なのではないだろうか。)
では責任とはかけ離れている対象の呪いを解く方法はなにか。
これは坂口の人生のバイブル「ぼのぼの」のシマリスくんの兄が答えを出している。
アライグマくんとショーねえちゃんの決闘を止めるお兄さんの発した言葉。
「許して忘れるのです」ということ。
自分の出自に対して憎む気持ちが無いのかと、シマリスくん言われても気にしていないというのはこの言葉に現れている、と坂口は思っている。詳しくは17巻を参照
許すことと、忘れること。
どちらも相手の存在を認めており、問題のあったことも認める。それでいて平常時の関係値まで軸を戻すこと。
関係の拗れに是非使っていきたい小話なのだが、どうもこれは世の中に当てはめてもいいのかもしれないと思っている。
解呪の方法は難しいけど簡単で、やろうとするとよくわからない、なんだかふわふわのままになる、そんな言葉だ。
・責任という「とらわれ」
さて、とらわれについて膨らましていた内容に収束させたい気持ちが強まってきた。
そもそもこの文章は結論がふわっている。(ふわふわしている。ふわ。)
ネットという虚構の海に垂れ流すものなのだからこれくらいが丁度いいんだけど、少し骨組か道か、固めていく方がいいかもしれない。
呪いについての話をしていた。
楔の話をしていた。
責任の話をしていた。
これ、すべてにおいて兼ね備えているものなのである。
どっちがいいのか悪いのか。当事者は当事者でよくおりあっていれば良い。
問題は第三者である。
性格には問題をさらに切り込んで広げていこうとする第三者、スピーカー。
一番物語を掻き回す存在である。
昨今のSNSも然り、時事問題然り当然のように姿を表すものたち。
これらに少々の責任と楔のフィルターで透かしてやれば、きっと惑わされることも減るはずである。
放った刃がちゃんと見えているのか、問うてみたい今日この頃。
こんなことを練り練りしながら作品づくりに励んでいる。
次回BOYCOTTの構想を練り練りしている。
お稽古もしている。本番が近い。
次は本番前についての話でも書こうかと思う。
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