令和6年能登半島地震
皆さんはこれまで生きてきた中で、あと数秒後に自分と家族が目の前で死んでしまうと思った事はありますか?
高校卒業後に地元の石川県を離れ東京へ上京しました。麻雀のプロ、いわゆるプロ雀士になりたかったからです。中学生の時にYouTubeでたまたま見た
瀬戸熊さんや滝沢さん、寿人さん、二階堂亜樹さん瑠美さんの対局動画を見て、ルールも知らないのに心惹かれました
地元の麻雀文化は僕を中心にすぐに広まり
中学校では問題になるほど人気の遊びになりました
高校卒業前の進路希望調査では
『プロ雀士』と書きました。地元の友達の中では間違いなく1番強かったし、格好つけたかったのでしょう。母親とは何度もケンカをしました。
当時、母親の思っていた麻雀界のイメージは
『とにかく怖い』『ギャンブル』
そんなところに行って、将来まともに生きていけないでしょ?ふざけないで、目覚まして?
泣きながら言われました。
まあでも実際プロ雀士ってなにやってるか分からないし、生活できるのか分からないし
なかなか言い返す言葉も無く、でもなぜか諦めきれなかった
そこで思いついたのが『東京で就職をする』と言う事。両立できるのか分からないけど、これなら納得してくれると思って提案してみた。
心配症な母親はそれでも半年近く嫌がっていたけど
いつの日か『祐生の好きなように生きな』と言ってくれるようになりました。
それがなんとなく寂しくもあったけど…
地元の小さな高校に来ていた東京からの求人は
・鉄道会社
・ラーメン屋の2択
電車なんか輪島にない、乗った事もないし学校の勉強をした事もなかったけど、なんとなく安定してそうな鉄道会社に決めた。
試験日前日、バスで東京へ向かった。どうせ東京に行くならプロ雀士に会えるだろうという訳の分からない発想をし、リュックサックの中にサイン色紙とペンを入れた。
東京に着いたのはもう夜だった。試験勉強なんてしても意味がないので秋葉原の大きなゲームセンターに向かった。いる訳のないプロ雀士を探しに。
麻雀格闘倶楽部のコーナーに着いた
何人かのおじさん達が必死にゲームをしている中
一際輝いているおじさんがいた
『黒木真生』プロだった。
ほらね、いたでしょ?当時の僕からすればそんな考えであるが、今思うと奇跡すぎる。
黒木さんにサインを貰って、一緒に写真を撮ってもらった。『僕、プロ雀士になりたいんです!』
『そうか、頑張れよ』
そして今の上司は黒木さんである。
試験日当日、会場には2.300人近くいただろうか
解答はマークシートで助かった。
ほとんど全て適当に解答を塗りつぶした。
1ヶ月、担任の先生のもとに電話があった
『駅員、合格』
両親と離れて埼玉の寮で暮らし始めた
会社に入ってすぐは麻雀プロどころか鉄道の知識を覚えるので精一杯だった。山手線ってなに?車掌ってなに?そんなレベルだった。
2年間は仕事中心の生活を繰り返した。
そんな中でも休みの日はたまに麻雀を打ちに行った
学生の頃、麻雀プロのブログをよく見ていたのだが
その中の1人に松岡千晶プロがいた
何気ないブログのコメントに書き込んだ
『プロ雀士目指してます!石川県の高校生です!卒業したら遊びに行きます!』
勝手を知らない僕は休みの日なのにスーツを着て
松岡千晶プロの働いているお店に飛び込んだ。
『コメントしたの覚えてますか…?』
松岡千晶プロは本当に来た事に驚いていた
そして、これをキッカケに仲良くしてもらい、プロになる背中を押してくれた
20歳になったころ、日本プロ麻雀連盟を受験した。
人生で勉強したのは運転免許とプロ雀士受験の2つ
筆記試験も、実技試験も、面接も完璧とは言えない気がした。でもアピールポイントに『ロン2』の成績があった。
ロン2=現『龍龍』は日本プロ麻雀連盟の公式オンライン麻雀ゲームだ。https://ron2.jp/
そのオンラインゲームを中学生の頃から真面目にプレイしていた僕は、他の受験者よりその成績が良く
試験官の方から褒められた。
結果は見事合格、晴れてプロ雀士となった
駅員とプロ雀士の両立はかなり大変だった
駅員は土日なんて関係ない、試合の日に仕事があれば有給休暇をとるしかない。休暇日数も限られている中、なんとか10年やり続けた。
そして2022年12月31日僕は鉄道会社を退職し、
石川県輪島市の実家に帰郷した。
麻雀プロは辞めなかったが、休会という扱いとなった。
正直に理由を話すと、会社の寮は10年経つと退去しなければいけないというルールがあった。
その時の僕は手取り15万円ほど、寮を出ると生活が苦しいのは目に見えていた。
数年前からの持病もあった。命に関わるような病気ではないが。これに関してはYouTubeや noteで説明しているのでそれを見てほしい。
あとは、じぃちゃん、ばぁちゃんも地元で元気で暮らしている事も理由のひとつだった。
10年東京で働いて、1年に数回地元に帰ったりしたけどこの機会を逃すと一生会えなくなるんじゃないかと思った。
麻雀プロ活動ができなくなる
その葛藤は凄まじかった。
でも僕は地元に帰った。
2023年、1月1日
両親も祖父母も『お帰り』と僕が帰ってきた事が嬉しい
というのが伝わる。
2月、プロ雀士の未練はやっぱり残っている。
何かできることはないか考え、YouTubeを始める事にした。https://youtube.com/@user-yb1tr5ke7s?si=LR3M3oekDHN3F-Pf
チャンネルの収益化はじぃちゃんの役満ドッキリの動画のおかげで2ヶ月近くで達成した。
このYouTubeのおかげで色んな方と巡り会えた。
5月、漫画家のウヒョ助先生が
僕に会いにわざわざ輪島まで来てくれた。麻雀漫画専門誌、近代麻雀の新連載『ピークアウト』https://note.com/kinma/n/n9bf773cf81fd
に出る1人のキャラクターとして僕を使ってくれるというお話で、その為の取材だった。
なんで僕なんだろう、僕でいいのだろうか。そんな気持ちでいっぱいだった。
6月、持病の手術で2週間入院した。全身麻酔で5時間手術した。医療ってすごい。その時のお話もYouTubeやnoteでしているのでぜひ
8月、通院を繰り返している中、携帯に一本の電話が入った。『山井弘』と表示された
とっさに『やべ、俺なんかやったかな?』と思った
いつもはすぐ押す通話開始ボタンを20秒ほどためらい、電話に出た
『庄田君の持っている力を連盟事務局で活かしてほしい、龍龍とかも手伝って、もっと盛り上げてほしい、今何もしていないんだったら連盟事務局で働いてみない?』
びっくりした。今すぐには回答ができないとお伝えして電話を切った。
自分が学生の頃からやっていた麻雀ゲームのスタッフに、そして連盟の事務局で裏方として働けるなんて思ってもいなかった。
やってみたい。そう思った。
でも同時にじぃちゃんばぁちゃんの顔が浮かんだ
僕に最初に麻雀を教えてくれたのはじぃちゃんだった。10年間地元を離れていた僕はじぃちゃんと麻雀ができなかった。
でもやっと帰ってきて、じぃちゃんといっぱい麻雀を打った。歳をとってきて物忘れも多くなってきた。でも麻雀を打つ時だけは元気で活き活きして。
そんな孫が1年も経たないうちにまた東京へ行ってしまう。
じぃちゃんに伝えるのが苦しかった。
今行ってしまうとじぃちゃんも、ばぁちゃんも、もう会えないかもしれない。その理由も大きかった。
だが僕は麻雀をとった。とってしまったのか
今も分からない。
じぃちゃんは悲しい顔をしていた。
もちろん両親も、母親も最後までこっちにいてほしいと言った。
最終日の夜、僕は涙が止まらなかった。
じぃちゃん、ばぁちゃん、父ちゃん、母ちゃん、
ごめん。
10月、連盟の三田晋也プロにつきっきりで面倒を見て貰い物件巡りをした。2件目ですぐ決まった。
職場からも駅からも近い高物件だ。
審査も通った。
10月29日、初めての仕事は龍龍杯の生配信MCだった。初めての仕事が初めてやるMCだ。
なんとか1日終えることができた。課題だらけだ。
11月、通常勤務が始まる。
事務局で働く沢山のプロの方にご挨拶をして
初めての事務作業を行う。
請求書作ったり、龍龍イベントのゲストプロにスケジュールの手配をしたり、慣れない作業で家に帰ったらばたんきゅーの生活が続いた。
12月、何か僕にしかできない事をやってみようと
急に思い立って『職権濫用シリーズ』をする事に決めた。連盟事務局にいると、毎日人気プロ雀士の方が出入りする。
その方達と2ショット写真を撮り、Xにアップしよう!と思った。
ファンの方も気にかけてくれるだろうし、僕自身の顔も知ってもらえるチャンスだと思った。
過去の写真は#職権濫用
で是非見てください
遊びに行ってる暇なんてなくようやく来た長期休暇
2024年、1月1日
地元に帰った僕はじぃちゃん、ばぁちゃんに『ただいま!あけましておめでとう!』と言い、実家で少しゆっくりした後
毎年恒例、母親の実家で親戚の集まるパーティーに参加した。
12時30分
少し前に見たはずの小さい子供が随分大きくなっている。ご飯も美味しい。正月ならではの雰囲気に心が温まる。
14時
みんなでゲームでもやろうか!
トランプだったり家の中で野球したり
笑いが絶えない
16時
あ、そうそう
俺は今こんな仕事してるんだ
大変だけど、なんとかやってるよ!
親戚一同の前で近況報告をする。
『そうか、頑張れよ』『また帰ってきてな』
16時06分
激しい横揺れと共に全員の携帯の緊急地震速報が鳴り響いた。震度5強。揺れている時間は10秒ほどか
『正月に地震なんてついてないな』
『焦ったな、久しぶりだこんな地震』
みんなまだ笑顔だ。
気分転換にまたゲームでもやるか!
トランプを配り始める
16時10分
トランプを配り終えたタイミングでまた横揺れが起きた。震度3か?…10秒経っても止まらない、むしろ揺れが大きくなっていく…これは震度…5?6?
15秒…30秒…爆発的な音とともに激しい縦揺れと横揺れが起きた。
全ての窓ガラスが割れる音、テレビの落下、人の2倍くらいあるタンスが宙を舞い、吹き飛んだ。
上を見ると目の前に天井。目の前の部屋がS字に見える。
親戚一同の悲鳴、外には崩れていく住宅
震度7を観測した揺れは2分間近く続いていた。
『あぁ、これが人生の終わりか』
本気でそう思った。
家を出る事もできない、立ち上がる事も、人を守る事もできない、このまま運に身を任せいつ止まるか分からない大地震の中で、人生の諦めがついた
今まで生きてきて、死ぬとはどうなってしまうのか、考えた事が何回かあった。
考えるだけでも怖くて、たまらなかった
でもあの震度7の時
『これはもうしょうがない、ダメだ』
そう思った。
その後はなにも考えなかった。
ただ崩れ行く家と人たちを見ながら必死に柱に捕まっているだけ。
揺れが収まった。ほぼ半壊に近かった。生きているのか?俺は
床にはさっきまで食べていたお寿司やおせちと共にガラスの破片や思い出の品が散らばっている。
それを必死で踏んだ。思い出もなにもかも、ボロボロの足で踏んで、家の外へ出た
『逃げろ!!!』
親戚の家から海までは相当近い距離だった。
東日本大震災の津波の映像を見ているので更に恐怖が増した。
周りの家の半分は崩壊している。
近くの山に16人全速力で走った。
大勢の人が同じ山に走って、血だらけになりながら逃げてきた。半分近くの人が靴を履いていない
実家のじぃちゃん、ばぁちゃんは無事だろうか
海沿いではないものの、家がまず耐えているか分からない。
携帯は発信できるが、出ない。
17時、冬の空は真っ暗で山の中にいる100人近くの避難者は寒さと恐怖で途方に暮れていた。
これから津波が来ると思うと震えが止まらなかった。
すぐそこの土砂が崩れた。この山もいつまで持つか分からない。
そんな時、地元の市役所の人か?レスキューか?
山に救助にやってきた。
『登ってきた別方向から降りるとホテルがあります
そのホテルの駐車場まで、気をつけて逃げてください!』
小さい子供から寝たきりのおばぁちゃんまで100人近くの行列が山を下った。
ホテルの駐車場に着いたがそこには更に200人近くの人がいた。30分ほど経っただろうか
親戚の1人がこう言った。
『このままここに居てもダメだ
避難所に移動しないか?』
目的の避難所までは徒歩で30分近くかかる。
津波はまだ来ていないが、もし歩いている間に津波が来ると全員終了だ。
僕は『このまま残ろう』と言った
何人か僕に意見を合わせたが多数決で避難所に行く事が決まった。
歩いて5分、神社の鳥居が倒れている
その瞬間親戚の1人が
『右見るな!絶対見るな!』と言った
『人が死んでる!!左!左見ろ!!』
すぐに左を向いたが地面は血だらけだった。
手を繋いでいた小さな親戚の目を僕の手でそっと隠した。これは海外ドラマかなにかなのか?
冷静に、ただ冷静に避難所へ向かった。
道路は全てぐちゃぐちゃだった。
地面が割れ、電信柱が倒れている。家もかなり潰れている。正月のこの時間、みんな家にいる。
潰れている家の下は…
そう考えると震えが止まらなかった。
先頭で携帯のライトを照らしながら逃げていた僕は先程と同じ光景を見た。
家の前でご家族であろう2人が泣いていた。
その前には血を流し倒れ果てた人間がいた。
親戚全員集めて、小さな声で知らせた
『左見ないで直進して、絶対』
大人達はみんな、何かを察したように頷いた。
そしてまた必死に逃げた。
避難所の大屋小学校についた。
電気が付いている。外よりもちろん暖かい。
すぐにじぃちゃんに電話をかけた。
電話に出た。ばぁちゃんと共に自衛隊駐屯地に逃げたと、良かった。
ひとまず落ち着いたが、実家の地区で火災が発生した。地震の影響で消防車の走れる道が限られ、更に川の水が引いて海に流れた影響で川から水が吸い込めず、消化に相当な時間がかかった。
観光名所の輪島朝市はほぼ全滅した。
この夜はきつかった。
静かになれば夕方の一連を思い出し
寝床は小学生がマット運動で使うマットや、卒業式で使う紅白のカーテンだった。
布団などはなく、とにかく凍えるほど寒かった。
次の日、朝6時頃か
実家の様子が気になり両親と僕で歩いて30分、観に行った。夜では分からなかった変わり果てた思い出の街。
右足がめちゃくちゃ痛い
どうやら昨日逃げる時に足をねん挫したみたいだ。
昨日は必死で気づかなかった。
実家が目に入ると、母親は涙した。
外から見ると少しのダメージを受けているだけだが
中はボロボロ、いつ崩れてもおかしくなかった。
僕の28年間の実家の思い出、実家の匂い、初めてのボーナスで買った全自動卓も全て無くなった。
父親は僕と母親を中に入れず、必要なものを取りに行った。
とにかく布団、毛布、薬、通帳、
見つけ出すのも困難でなかなか出てこない
そんな中でも余震は続く
2階の窓から外に必要なものを放り投げる
それを受け止める僕と母親
早く戻って来て
そう願うだけだった
父親も出て来て1時間ほど家の前でみんなで休んだ
僕はYouTubeを開いていた。
ライブ配信しようと思った。
不謹慎かもしれないが伝えれるのは僕しかいない
そう思った。
反響がすごく、大勢の方が見てくれた。
スパチャも多く頂いてしまった。
感謝致します。
2日目の夜、避難所が停電した。17時なのに真っ暗だ。充電も切れそう。毛布はあってもまだ寒い。
数時間、極寒だった。なんとか耐え凌いだ
3日目の朝も家に向かった。
父親だけまた家の中に入り必要な物を2階の窓から投げた。
そういえばトイレができない。
男も女も、大も小も関係なく
ティッシュペーパーだけ持って
車庫にあった大きな木の板4枚を家の影の水が流れている所に置き、簡易トイレを作った。
そこでするしかなかった。
現在3日目の夜だ。水道はまだきていない
電気は発電機でなんとかなっているがいつ無くなるか分からない。
親戚一同集まって、会議をしている
『もう、家両方ダメだな』
『新しく建てるにしてもこの土地はもう怖い』
『定年前だから銀行からも借りれないな』
…俺か。
…俺しかいないか。
麻雀プロはどうする。
せっかくまた東京に戻って事務局で働き始めて
これから麻雀プロも本腰入れてやって行けるっていう時に。
正直、かなり無理をすれば明日にでも東京に戻れる。新幹線も開通してるみたいだ。
でも、これから家族が住む家も、ましてや今の家の片付けさえもなにも終わっていないのに戻れるわけなんてない。
震災後すぐに山井さんにもそうだし
会長含め、スタッフ全員に連絡を入れた。
『こっちはいいから、今はご家族と輪島の為に頑張れよ!』
申し訳ないです。
目処なんて分からない、
じゃあ、いつ東京に戻るの?
分からない、まったく。
想像がつかない
じゃあ明日なにかやる事あるの?
なにもない
余震が続いてるから片付けできない
こんな日々が続いています。
森山会長含め、連盟事務局スタッフの方、夏目坂スタジオスタッフの方全員に申し訳ない気持ちでいっぱいです。
両親からは
『戻れるなら早く東京に戻れ、家族全員死ぬより、祐生と弟の駿希は生きてくれ』
と言われましたが
こんなこと言われたら尚更戻れない
いや、家族は本気で戻れと思ってるんですけどね
今はなにも家族の為にできないけど
今回受けた震災をなんとか少しでもプラスに変える為に、とりあえず僕が今できること、輪島の現状を伝える事をしようと思います。
YouTubeだったり、Xだったり、
リアルを配信、アップします。
これは、今後『麻雀プロとして生きて行く』為に
していきます。
仮設住宅だって入れるか分からない
本当にみんなこの先何も分からない
僕もいつ帰れるか、帰るか分からない
スタッフの皆さん、めちゃくちゃな事言ってすみません!!
少しの間家族と、親戚と、昔お世話になった近所の
おじちゃんおばちゃんの手伝いしてきます!
そんな事言いながら復旧が進んでめちゃくちゃ早く戻るかもしれません!
てか俺次からのリーグ戦、、どうなんのー
僕がお手伝いしてる日本プロ麻雀連盟公式オンライン麻雀『龍龍』です!みんなプレイしてほしいな!
余裕が出てきたら龍龍もいっぱいします!
みんな対戦してください!https://ron2.jp/
YouTubeも見てください!チャンネル登録してください!これが1番嬉しいです!https://youtube.com/@user-yb1tr5ke7s?si=LR3M3oekDHN3F-Pf
近代麻雀『ピークアウト』庄田棒太郎ちゃんが可愛くてたまらないです!
https://note.com/kinma/n/n9bf773cf81fd
物語もめちゃくちゃ面白いのでみんな見て!
こんな文章書いた事ないので
見にくいところいっぱいあると思います!
あ、最後に
将来の目標聞かれることがたまにあるんだけど
『鳳凰位、最強戦出演、Mリーガー、タイトル獲得』
そりゃあみんな獲りたいし出たいしなりたいしわけで
違う考え方をしてみて
瀬戸熊さん、滝沢さん、寿人さん、亜樹さん、瑠美さんを見て目がギラギラに輝いた、あの日の幼い庄田少年を、今度は僕の力で1人でも増やすこと
瀬戸熊さん、滝沢さん、寿人さん、亜樹さん、瑠美さんが
俺になってるということ!!!
きちい!!!
でも
最近麻雀店や街で声かけて頂くことや
お写真を撮らせて頂く機会、増えました。
めちゃくちゃ嬉しいです!
もっと声かけてください!w
あの日の庄田少年の見ていた先輩方に少しずつでも近づいて…るのか?
これから頑張ります!
ありがとうございました!