畑の学校
畑の学校 小説
虚士(きょし)が小学二年生(昭和32年)秋の話です。浅海(あさみ)分校に通学していたある土曜日、分校長で担任の丘上(おかのうえ)先生が下校前のお話しで、「来週の月と火曜日は、芋掘りの農繁期で忙しいから、皆さんのお家の畑が学校です。お仕事の手伝いをして下さい。」と告げられました。
教室は、「わあー、やったー」と皆んな飛び上がりました。虚士も嬉しくて拍手しました。丘上先生は普段から楽しい先生で、「今日は天気がいいから、体育で山登りにする」と言って皆んなで本越山に登った事もありました。
その日の夜、虚士は両親に「月曜も火曜も休みになったので、いっぱい遊ぶ」と話しました。すると母の紀乃が、「なんかおかしかね、何の休みか言われんじゃったね?」と、--渋々虚士は家の手伝いをするように言われた事を話しました。
母が「ちょうど良かった、猫の手も借りたい位い忙しいから、一緒に”後ろ山”に芋掘りに行こう、家におったら悪か事してろくな事はなか!」と言いました。虚士は「えー、後ろ山まで!」、後ろ山は浅海集落の西側に位置する段々畑で、山道で片道6km程ある一番遠い畑でした。
虚士は思った通り遊ばれ無くなったので、がっかりしたものの、”後ろ山”には、ねこんべ(猫の糞=あけび)、んベ(犬の糞=うべ)、こっこ(キューイフルーツの原種)があるから楽しい事もあると気を取り直しました。
次の日早朝、父母と二人の兄と虚士5人で、リヤカーを引いて芋掘りに出かけました。登り坂でがたがたの長い道のりを歩いて、やっと後ろ山の峠に着きました。この峠まで深海(ふかみ)集落の澱粉工場から、三輪トラックがきて、ドングロス袋に入れた芋を集荷に来てくれます。当時芋は貴重な現金収入源でもあったのです。しかし虚士家の芋畑は、この峠から人と牛ぐらいしか通らない細い坂道を300m近く下った処にありましたので、ここまで掘った芋を人力で担ぎ上げなければなりませんでした。
芋畑に着くと、兄達が芋ずらを鎌で刈り取って行き、その後父が刃の長い鍬で、芋を掘って行きます。その後母が芋を集め、つると切り離し整理して積み上げます。虚士は遊びたいのにいやいやながら母の手伝いをして、昼までこの作業が続きました。
昼食は、自宅からドカ弁に詰めて来た麦飯と鰯の干物、漬け物等でしたが、手を洗う場所が畑から少し距離があるので、芋の澱粉質と土がくっついて汚い手の上に、畑のカボチャの葉っぱを置き、その上に麦飯を載せて食べました。
昼食後、いよいよ掘った芋を峠まで運び上げる作業になります。両親は、稲わらで編んだ”コイドリ”をぼくとうの両側に差し込んで肩天秤で運びますが、子供達は、”コイドリ”に担い縄をつけて肩に背負い込んで運びます。
虚士は、早く遊びたいものだから、自分が運ぶ量を父に決めてもらいました。
”コイドリ”いっぱい入れて、普通であれば5回分ぐらいの量を3回で済まそうと企みました。それを近くで見ていた母が、「ひゆじのオブ荷(なまけ者の重荷)じゃった!ろくな事なかよ!」と言いました。
一回目はよろよろしながらも何とかうまく出来ました。二回目は芋の重さで肩に縄が食い込み痛くて、何回も休憩しながらも何とか運びました。最後が悲惨でした。へばっていて足がよろよろして、肩が痛くて20mも歩かないうちにへたれ込んで、芋をひっくり返してしまいました。
気を取り直し再度芋を”コイドリ”に入れ直し歩きますが、兄が「お先にー!」と軽々と担いで追い越して行きます。悔しいが仕方なく、何回も休憩しながら運び上げが終了した時は、兄達は既に終了して峠から林の方へ下って、”ねこんべ、んべ”探しに行っていました。
虚士も兄達も”ねこんべ、んべ”を見つけ採取して両親に自慢しました。種が殆どですが、当時としては甘い果物は貴重で、丁寧にしゃぶっていました。
夕暮れ時、一家は家畜の牛の餌用に芋のつるを丸めて、リヤカーいっぱいに載せ帰路に着きました。
終わり
(この話は実話に基づいていますが、細部の記憶が怪しいので”小説”としました)
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