おっさん差別は政治の産物ー1
アメリカは、1%の富裕層が富の40%を独占する、異常な格差社会である。そして日本も、ゆくゆくはAI利権を手にした上位1%の富裕層が、富を独占するようになるのだろう。1%の富裕層VS99%の貧困層からなる、超格差社会での到来である。そうなれば当然、99%の貧困層による革命がおこる。その革命は共産革命ではなく、ファシズム革命である。
この資本主義というシステムの支配者、大富豪連はまちがいなくファシズムを怖れている。ゆえに日本のような資本主義の最先端を走っているような国では、伝統文化が徹底的に貶められているわけだ。日本で伝統文化が蔑まれているのは、すべて、政治的な理由からである。
(この記事の続きでもあります)
伝統文化は、何としても滅ぼさなければならぬ。大資本家たちは、こう固く決意している。そして、伝統文化を破壊するには、その文化を支える人間の権威を破壊する必要がある。
伝統というと厳めしいイメージがあるが、なんのことはない、これは男たちが作ってきた男性文化のことだ。そもそも文化の骨格、大枠は男にしか作れない。男は文化的なものに異常な執着を示し、さらに論理や大義に殉じようとする資質を内包している。男たちは、文化や大義のために死ぬことができる。こういう極端な資質は女たちにはないし、また、あっても困る。女が死ねるのは、ただ自分の子どもの為のみだろう。
さらに、リミッターの外れた独創性をもつ天才、偉人、聖者の類もまた、ほぼ男しかいない。女はバランス感覚があまりにも優れているがゆえに、リミッターを外すことができない。ゆえに、限界を超えて突出することもできない。しかし男には、生まれながらにリミッターの外れた人間が、一定数いる。だから才能における突出した領域にいる人間は、自然、ほぼ男になる。
その国の文化がどの程度のものになるのかは、男次第である。男たちが偉大であれば、その文化もまた、偉大たりうる。しかし男たちが卑小でしかないのなら、その文化もまた、卑小でしかなりえない。文化とは、どこまでいっても男次第なのだ。
男たちこそが文化の創造者であり、また守護者でもある。そしてその男とは、もちろん大人の男たちが中心になる。女たちは、男たちが作った文化の大枠の中で、女にしか作れない、独特で美しい小さな花を咲かすのみである。だから、その国の男をダメにしてしまえば、その国の文化もまたダメになる。そして、その男をダメにする劇薬として、フェミニズムがあるわけだ。
そしてこう考えると、韓国や中国といった東アジアの国で、長幼の序がいまだ絶対の規範として社会に君臨している理由がわかる。それは彼らが、伝統文化という基準を守るために、その守り手である年長者、とくに大人の男たちに権威を与えなけれならないということを、きちんと理解しているからだ。
イスラム教国では、コーランとイスラム教指導者の権威は、絶対である。カトリック国でも同じく、聖書と神父の権威は絶対である。こういう宗教国家で、聖書や宗教指導者をバカにすることなど、天地がひっくり返ってもありえない。なぜならそれは、その宗教じたいを滅ぼすことにつながってしまうからだ。宗教が滅びれば、その宗教の規範で内面をつくりあげたその人間の精神もまた、崩壊してしまうだろう。
同様に、宗教無き東アジアの国々では、伝統という基準を守るために、年長者にしかるべき権威を与えているわけだ。伝統の基準が破壊されれば、とうぜん無秩序になる。そうなれば、ルールなき人間たちにに社会の秩序は破壊される。とくに、文化大革命という伝統破壊の暴力革命により、罪のない2000万人もの人々がゴロツキ連中に虐殺された苦すぎる歴史を持つ中国人は、そのことをよくわかっているのだろう。
基準が無くなれば、基準をもたない人間たちに、社会が破壊されてしまう。この世の中には、責任をとらなくていい、またはハナからとる気などないという、反社会的な人間が一定数いる。そういう人間に、やりたい放題のことをやられてしまうのだ。人間社会とは、善と悪とのせめぎあいである。基準とはその悪を抑圧し、しかるべき秩序を作りだすためにあるのだ。
ゆえに基準は絶対である。そしてその基準とは、人間には伝統か宗教かの2つしかない。中韓国人はそのことをよくわかっているからこそ、長幼の序を絶対の基準をとして崇めているわけだ。彼らは、「長幼の序」を好きでたまらないから崇拝しているわけではない。ただ、必用だからそうしているだけだ。
もう一度まとめてみよう。人間には、行動の基準が絶対に必要である。ある国ではそれはイスラム教であり、またある国ではキリスト教、そして宗教無き国では、それは伝統文化である。そしてその基準を守るために、絶対の権威を持った人間がいるわけだ。
何が基準か、誰がその基準を守るのかが違うだけで、やっていることはどこの国も同じである。こうやってどこの国も、自分たちの独自の文化を守っているわけだ。逆に、日本だけがこの世界でこうやって、自分たちの文化を守るということをしていない。
長幼の序の文化は、封建時代の遺物では断じてない。基準なくして社会を構築することができない人間の、いわば苦肉の策だ。誰だって、自分たちが一番だと思いたい。しかしそれをやってしまえば、社会はカオスの渦に飲み込まれてしまう。だから、あえて年長者を崇めようという、大人の文化だ。
こういったことに関しては中韓国人は文明的であり、われわれ日本人は非常に迷信的、というより宗教的である。リベラル、フェミニズムというカルトを、盲目的に崇めてしまっている。そして邪教を崇めてしまえば、とうぜん何かがおかしくなるのだ。
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では、そもそも文化とは何だろうか?それは、すべてである。文化とは道義であり美意識であり、理想であり、また秩序でもあり、いわばその民族のすべてである。その民族が1000年かけて作り上げた、全人間的な営為の結晶を文化という。ゆえに文化が衰弱すれば、個人としての人間も、全体としての民族も衰弱していく。人々の生活から、安心感や意義が感じられなくなっていき、社会全体が虚無感でおおわれていく。そしてある時が来れば、すべてが終わる。
伝統文化と個人とは、じつは密着している。
例えば、かつてのアメリカのある先住民居住区では、成人男子の60%がアルコール中毒である、というすさまじい状況にあった。彼らは白人たちに自分たちの文化を完膚なきまでに破壊されてしまったがゆえに、生きる気力すら失ってしまった。彼らは自分たちの文化を失ってしまったがゆえに、この世界にどう適応したらいいのかが、もはやわからなくなってしまったわけだ。
こういうことを人類は体験的に把握してきたからこそ、支配民族は必ず被支配民族にたいし、伝統破壊工作をやってきたわけだ。その民族を滅亡に追いこむには、剣でやるよりも、言葉でもってその民族の文化を破壊する方が、はるかに効率が良く手っ取り早い。
だからこそ、大資本家たちが支配者として君臨する資本主義社会では、大人の男たちが、とことんバカにされているわけだ。日本もひどいが、アメリカでも白人男性が目の敵にされている。日米ともに、大人の男の権威は地に堕ちているている。それでもアメリカはまだマシだが、日本では大人の男など、ほとんど賤民みたいなものだろう。
もちろんこれは、文化の守り手の権威を否定し、その国の文化を破壊するためだ。基準がなくなれば、必ず社会は悪人たちに踏みにじられる。つまりその民族のかかえる悪の要素にひきづられ、社会はどこまでも崩れていく。この世界の支配層は、これを狙っている。文化の守り手の権威を破壊してしまえば、その社会はまるで、支えを失った建物のようにたやすく崩壊していくのだ。
かつての日本では、子供が度の過ぎたイジメをしていたとき、若者たちが乱暴なふるまいをしていたとき、女集団が陰湿なイジメをしていたとき、上司が部下に過剰なパワハラをしていたとき、年長者の男が一喝すれば、たいていはそれで収まった。年長者は敬わねばならぬという意識を、すべての日本人が共有していたからだ。いわば日本文化にとっての宗教的指導者を果たす人間を、みんなで敬っていたわけだ。
しかしこの年長者、大人の男の権威は破壊された。もはや大人の男たちは、女も子供も若者も叱れない。ご老人たちもまた、壮年男女を𠮟れない。結果として生まれたものは、カオスの状況である。
権威による抑圧なき世界では、「ルール無きならず者」がその場の支配者になる。そしてイジメもパワハラもどこまでも過激になり、文字通り、相手を死に追いこむまで止まない。こういった状況になれば、どんな立派な社会だろうが溶解するより他はなくなってしまう。
この凄まじい事件を思いおこしていただきたい。大の大人が一歳児をカッターナイフで脅す。両足をつかんで逆さ釣りにする。完全に狂っている。90年代までは、こんなことは想像のしようもなかったことだ。
なぜこんな狂気じみたことが起こるのか?それは彼女たちには、怖いものが何も無いからだ。かつては職場のボスが、年長者が怖かった。そしてみんながこういう権威の人間を尊重していた。かつては職場のボスが筋の通っていることを言えば、誰もが逆らえない空気ができた。いわば職場のボスや年長者とは、その場の空気を作る主催者だったわけだ。日本人であるいじょう、空気には誰も逆らえない。だからこういうならず者も、迂闊なことはできなかった。つまり、かつては常識がならず者をしばる文化があったわけだ。
しかし、こういった家父長的な権威は崩壊した。もはやならず者連には、怖いものは何もない。事実、誰も彼らを叱れない。怖いものが何もないのなら、ならず者がやりたい放題をやるのはとうぜんのことだ。文化の守り手の権威が崩壊した世界では、文化がくずれ、その民族の最低レベルの人間が幅をきかせるようになるのだ。
「その場の最強の人間に権威をあたえるかわりに、その組織の最後の一人まで守る責任を負わせる」これが、家父長文化である。その家父長的な人間から権威をうばってしまえば、彼らが押さえつけてきたごろつき連中に、社会は破壊されてしまうわけだ。文化大革命をおこした毛沢東も、ポルポト派もこの手法を使い、伝統社会を破壊した。
これはじつは、革命家たちに使い古された手法でしかない。この革命の手法をフェミニストとリベラリストが再び使い、この国の文化を破壊しようと企んでいる。このことは、せめて本を読む読書階級の人々くらいは、知っておかなければダメだと思う。
さらにこの状況は、支配者たちにとって都合がいい。伝統のルールは崩壊した。しかし、人間社会はルールなしには存立しえない。必ず人々は、新たなるルールを求めざるを得なくなる。
では、その新たなるルールを作るのは誰だろう?それは当然この社会の支配者である、資本家と役人たちだろう。そして彼らは、自分たちにとことん都合の良いルールをつくるに決まっている。伝統文化という日本人が2000年かけて作ってきたいわば「自治の文化」が破壊されれば、それにとって代わるのは、支配者たちのルールしかない。国民に対する管理はますます強化され、自由がなくなっていく。
フェミニストとリベラル文化人は、支配層の走狗となり、彼らに都合のいい社会を作る露払いをしているだけなのだ。
リベラル諸君は年長者が、というより誰かが権威をもつことが、死ぬほど嫌いな人たちだ。しかし年長者の権威を認めなければ、支配者たちがさらなる強権をわれわれに振りかざすだけだ。そしてこの支配者たちには、日本人同士の親愛の念など、かけらもない。彼らには、支配欲と経済効率しかない。こちらの方が、はるかにしんどい。何の抑圧もない社会など存在しえないのだということを、リベラル諸君は知るべきだろう。
伝統文化を破壊すれば、民族は弱体化する。さらに支配者たちが、新たなるルールを作ることができる。一石二鳥である。何もかもが支配者たちの思いのまま・・・、自分たちで、自分たちの依って立つ文化を破壊している愚かなドレイ。残念ながら、これが現代の日本である。
この国に満ちあふれている、不自然すぎるおっさん世代に対するヘイト・・・、この奇妙な作為を演出しているのは誰なのか?そして、何の目的があるのか?
世代を問わず、男たちはよく考えてみる必要がある。
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