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代わりは効いた方がいいのか

なんとなくスッキリしたいなと思うとよく近所の銭湯に行きます。

その銭湯にもよくあるように小岩井の牛乳の自販機がありまして、たまに利用する程度でさほど意識していなかったのですが、ある日、「小岩井のフルーツ牛乳は●月●日で生産が終了します。買うなら今のうちに楽しもう(意訳)」という張り紙が現れました。

終わると知ると急に名残惜しくなるものですが、そのときの僕は「張り紙に行動を曲げられるのはなんとなく癪だ」と思いコーヒー牛乳を飲みました。

それから2週間ほど経った今日のこと―――――――


小岩井のフルーツ牛乳が並んでいた場所には……

なんと、雪印のフルーツ牛乳があるではありませんか。

こ、これは……

プチ閉店セール詐欺だ!!!!


いや、厳密には詐欺ではないですね。「『小岩井』のフルーツ牛乳」が終わると言っているだけで「フルーツ牛乳」が終わるとは言っていませんし。何にでもすぐに代わりが見つかりスムーズな運営が進んでいくのは現代のいい部分ですが、それには一抹のさみしさも感じます。


話は急に変わりまして、あなたの仕事に代わりは効いた方がいいと思いますか?

僕は基本的には、仕事についてはきちんと手順が明確になっていて、属人化の度合いは低い方がいいと思います。

「ちょっとアレのことは担当しかわからないなァ…」とか「一度全部お前が集約しろ」が発生すると業務量がフローしたときにしんどい。スムーズに引き継ぎたい。〇〇さんに確認しながらでないと進まない、みたいな仕事は好きじゃありません。

では、すべての進め方が言語化されていて真の意味で誰にでもできる仕事しかない状態は最高なのかというと、それはそれで別の危うさが生まれます。あなた自身の必要性が職場からなくなる訳ですからね。

その事態を避けるためには

・適度にブラックボックスを残す

・外から見ると大変そうだが本人の負荷はさほど大きくない業務をする

などが解決策になるのでしょう。

専門がないのに後者を意図的にやろうとすると「やっている感」を演じることになります。やれやれ、それは僕らが一番軽蔑する類の業務ではありませんか。

計画のための計画とか、評価のための評価などは丁寧に作れば作るほど社員の首を絞めていくように思えてなりませんが、末端の人間が何を考えても大抵無駄です。適度な距離感を見つけていくのがよいのでしょう。(それが苦手なので困っているのですが)演技力を使う仕事、1時間以内であればそれなりにできるつもりでいますけど、MPの消耗が激しいので一日ずっとは厳しい。

上手い人は力を入れるべき部分と適当に流す部分を器用に(それも無意識に)やってるようですがその力はどうしたら身につくのでしょうね。トライアンドエラーしかないのかな?失敗しない後悔しない人生がいいな。(無理)


そんなことをフルーツ牛乳を飲みながら考えました。美味しかったです。2週間前に謎の捻くれた精神を発揮したおかげで小岩井と雪印のどちらが美味しいのか僕にはわかりません。素直に飲んでいたとしてもきっと大した違いなんてわからないのでしょう。何事もなかったように自販機は今日も湯上りの火照った客に冷たい牛乳を淡々と提供し続けるのでした。

おわり

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