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ネズミの絵の人

はじめに

マジでただの市中の人が書いたニュースの感想です。それ以上でも以下でもなくて、たぶん、読む価値ない。落書きにゃ落書きみてえな文章をぶつけてやる。


無理無理無理無理無理無理ダサイダサイダサイダサイダサイダサイ

バンクシー、「自分は常に「風刺」する側」だと思ってそう。

作品?自体の「外側から風刺しているぜ」って態度が鼻につく。お前のその態度、もうコモディティ化したぞ。

「マスクの着用を推奨してる」と解釈するのは論外。どう見ても「マスクをしてればOK」と思考停止してるやつを揶揄してるでしょ。

そして僕の「風刺してるやつサムい」って感想も「風刺を風刺する」構造に絡めとられる。逃げ道ないじゃん。

僕はダブルスタンダードとか人によって態度を変える人とかきらいだ。「誰が言ったか」じゃなくて「何を言ったか」で判断したいと信念としては思っている。もちろん、厳密にそんなことはできる人間がいないのは知っている。そして僕自身にそれができないことが歯がゆい。

知名度が高すぎて何をやっても好意的に解釈する人が多いのもきもちわるい。アート自体、文脈を思いついて先にいったもの勝ちみたいなところあるから仕方ないんだけれど。

なんでイライラしてるのかといえば、無限に続くマトリョーシカみたいな構造を不意に突きつけられて絶望しているんだろう。

マトリョーシカというのは

・好意的に報道するメディア

・「好意的に報道するメディア」に踊らされて絶賛する人

・「「好意的に報道するメディア」に踊らされて絶賛する人」を風刺する人

・「「「好意的に報道するメディア」に踊らされて絶賛する人」を風刺する人」が出ることまで含めてアートだ

・「「「「好意的に報道するメディア」に踊らされて絶賛する人」を風刺する人」が出ることまで含めてアートだ」と議論を起こすインスタレーションやぞ?

・「「「「「好意的に報道するメディア」に踊らされて絶賛する人」を風刺する人」が出ることまで含めてアートだ」と議論を起こすインスタレーションやぞ?」とアートを拡大解釈する試み

…以下無限に続く…みたいなやつです。


前述した「ダブルスタンダードきらい」という態度は僕自身が抱えるダブルスタンダードにもきちんと刺さるので、それに対してもイライラする。

あの落書きに自分だったらどう対応するかを空想してみる。多分「私」として対応するか「公」として対応するかで逆になる。うわ、また自己矛盾するじゃん。

あれが書かれたのが自分の家の壁なら内心で小馬鹿にしつつ外壁を剥がしてヤフオクにかけるなり美術商に売り込むなりする。会社の壁だったら丁寧に掃除して消し遺憾の意を表明する。

振り返ると公の立場なのに剥がして飾った百合子ちゃん頭おかしいな。

百合子ちゃんへの反応も「あれこそが最高の風刺だ」と好意的に解釈する人がいるしやっぱりどこまで行っても出口はないらしい。

あらゆるものから自由になりたい。すぐ外側の壁が見えるのつらい。


結論

どこにも出口がないことに絶望しています。

おわり




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