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「生きづらさ」を振りかざさず心穏やかにすごすために

こんにちは。
なんだか人生上手くいかないことだらけだなーと思っていたら、どうやら僕は発達障害者らしい。


このnoteはこんな構成で書く。

1)僕自身の直近について
2)当事者の語りに感じた違和感
3)こころ穏やかにすごすための心構え

「生きづらい」と感じたとき、人は往々にして被害者意識や憎しみの自己増殖装置になって周囲の「生きづらくなさそうに見える人」を攻撃し始める。
自分がそんなバケモノにならないよう、この投稿をまとめて気持ちを整理していくのでよろしく。

1)僕自身の直近について

ADHDの診断が下りた。
最初に「自分は発達障害者かもしれない」と気付いたときにはかなり鬱っぽくなったけど今は元気だ。

…というか今思い返せば
・大学の授業で寝すぎて先生ににナルコレプシーを疑われ睡眠外来に通う
・資格試験に必要な大事な実習で2時間の遅刻をかます
などいろいろやらかしていた。

先生、忙しいのに受け入れてくれた実習先のみなさん、誠に申し訳ございませんでした!!
許してくれと言うつもりもないけど悪気はなかったんだ…

診断はADHDだけどASD(ちょっと前まで自閉症とかアスペルガーと呼ばれていたもの)の要素も強いんじゃないかと思う。
空気が読めず浮いてしまったり、雑談の場で理屈の正しさに邁進して気付くと周りがドン引きしたりしてる…なんてのはしょっちゅうだ。

診断が下りたことで自分の取説をつくりやすくなったなとちょっと安心した。

障害についてはできれば伏せて過ごしたい思う。
下手にカミングアウトして気を使わせちゃうのは嫌だもの。

あとは偏見が怖いというのもある。
「無能のレッテルが付いた相手になら人はどこまででも冷酷になれる」という学びは数年間の短い社会人生活でも十分できたつもりだ。
残念ながら今の職場で障害を明かすことは「無能」のラベリング強化に作用し結果、僕自身の居心地は悪くなるだろう。

心療内科に通ってストラテラというノルアドレナリンの再取り込みを抑制するお薬をもらったが体に合わず飲むのをやめた。
今はカフェイン錠やスマドラとの上手な付き合い方を模索中である。


2)当事者の語りに感じた違和感

仕事で認知症のことを調べていたことがあるのでそれと絡めて書いていく。
僕は短期記憶がかなり弱かったり、段取りを考えながらものごとを進めるのがかなり苦手だ。
これは認知症による記憶障害や実行機能障害と結構近そうだなあと思う。
原因は全く別物だが困りごとが重なる部分はありそうだ。

① ポジティブな当事者の語り
この動画が好きで落ち込んだときには見返している。

「できることを奪わないでほしい。人生は認知症になっても新しく作ることができる。」
とても力強くてすきだ。

ご縁があり本人にお会いしたことがある。
笑顔がまぶしく、自分のできることをして理解を進めようと熱心に活動するすごく素敵な方だった。

本論からは逸れるが、この本はとても面白い。
セールスマンとしてどうお客さんと接して成績を上げてきたのかの話は医療や福祉に関心がない人が読んでもためになると思う。


② 気持ちはわかるけど一方的な要求じゃん…という当事者の語り
別の認知症の当事者のお話を伺ったこともある。

その方も社会の理解を広げようと講演会などで自身の経験を語っている。
啓発活動そのものは立派だし尊いと思う。

ただ、聞いていてかなり違和感を覚えた点もあった。

その方は実行機能障害が強く、スーパーの自動レジや駅の券売機が上手く使えないという。
だから、専従の従業員を常時置いてほしいと。

本当に困っているのだろう。
とても苦労してきたのだろう
気持ちはわかる。

だが、欠けている視点がある。
「その配慮のためのコストを誰が負担するのか」だ。

小売店も交通機関も慈善事業じゃない。
残念ながら「認知症に優しい企業PRの効果」と「券売機に職員を一人釘付けにする人件費」は釣り合わないだろう。
そうなればいいと僕だって思うけど、このままじゃ実現は難しい理想論に終わる。

③ 自分の境遇の呪い周りを攻撃する当事者
次の方は認知症とは関係ない。
精神障害者のピアサポートグループの方と関わったことがある。

話は逸れるが、ピアサポートはとても重要だ。
心療内科に通って薬をもらうだけでは補えないものがある。
承認欲求とか「生きていてもいいんだ」と思える自己肯定感だ。

これらを得るのに近い境遇の仲間とつながり支えるのは有効なアプローチである。
僕もツイッターで発達障害を持っている人をフォローして失敗談を聞いているとちょっとだけ「生きていてもいいかなー」と思えてくる。

cf:アライさん

匿名空間に現れたピアサポートのオルタナといった趣で素敵だ。

閑話休題。
本題に戻ろう。

その人は被害者意識をかなり強めている印象を受けた。
「精神障がい者だからってバカにしてるのか!!」と怒鳴られた。
(事務の手続きを間違えそうになったので怒られた原因は100%僕にあります。その点はすみませんでした。ただ怒鳴らなくてもいいじゃんとは思う。)

あの方の「障がい者」と「そうでない人」を二元論的に分けて後者にあたり散らすスタンスはあんまりよくないと思った。
あなたには僕も健常者に見えたんでしょうがどちらかといえば障害寄りの生き物だし…
10月になったら手帳申請しようと思ってるし…

そもそも障害は定義があいまいだ。
生活や社会参画に障りがあるかで捉えるものである。
0か1か、白か黒かでは語りえない。
だから昨今、何かのグレーゾーンに着目が集まる。

「普通の生活」の難易度がどんどん上がるので、そこからこぼれ落ちた灰色にどんどん名前が付くようになった。
発達障害、人格障害、適応障害、HSP…
どれも数年前よりよく耳にする。
これらの「生きづらさ」を説明するタグはどんどん増えるだろう。
何かの診断がつかなくたって人間関係が上手くいかないとかモテないとか悩む人は増えてる。

「自分は被害者だ」という意識に閉じこもるのは逃げだし視野狭窄を起こしていると思う。
被害者意識を正当防衛のつもりでナイフみたいに振り回して誰かに怪我をさせちゃダメだ。
「生きづらさ」は誰かを傷つける免罪符じゃない。

3)こころ穏やかにすごすための心構え

① 必要以上に人と比べない

ADHDの中には強みの一点突破でデザイナーや写真家、音楽活動で目覚ましい活躍をされている人もいる。
例えばセカオワfukaseさんがADHDを公表している。

そういったクリエイティブな分野で活躍している人を「羨ましく思わない」と言ったら嘘になる。
でも僕には彼らを妬む資格はない。
新しい環境に移動する勇気がなくて安定した今の仕事に何とかしがみつこうとしているのだもの。

上を見上げればキリがない。

一方、下ばかりみて「あいつ等よりマシ」みたいな考えで頭を満たすこともしたくない。
発達障害者の中にはうつや双極などの重い2次障害に苦しんでいる人も多い。
そういった人から見れば体が元気に動いて(なんとかではあるが)働けている僕が羨ましく思えるかもしれないのだ。

誰が誰の上だとか下だとか考えることは心穏やかに生きるには必要ない。そんなものは視点と環境で全く異なった相対的なものに過ぎない。

もやもやするときこそ「自分の姿」「いまここ」だけを見据えたい。


② できる生活の工夫を積み重ねる
原因を全部外側に求めて自分を正当化しちゃえば自責の念は弱められる。
でもそれはやりたくない。
何かの原因というのはたいてい一つではないし複雑だ。
障害特性ゆえに複雑さを受け入れられないことは多いけど全くやめてしまいたくはない。

僕にできるのは被害者意識に閉じこもらずにできる改善を積み重ねて生活上の障りを一つずつ取り除く、それだけだ。
それでいいと思う。

朝怠くて動けないときのために栄養ドリンク枕元に置くようにしたら遅刻が減った
とか
付箋やマーカーを使うようにしたら目が泳いで仕事が手に付かない場面が減った
とか、そんな小さなライフハックを積み重ねてゆくのだ。

世界を呪っても生活は楽にならない。
発達障害の診断が下ってからも残念ながら人生は続くのだ。
できる工夫を積み重ねてちょっとずつでもマシにしていこう。

最後に
自分の気持ちの整理のために素人が書いた駄文だが、この投稿で心が軽くなる人がいたら幸いだ。
しぶとく生存戦略を練り続けよう。

【参考にしたnote】
・白饅頭日誌:3月13日「心穏やかに『当事者』であること」


・マガジン限定記事vol.35「だれも責任を負いたくないがゆえの結末」


【参考にした書籍】
・発達障害グレーゾーン


・発達障害の僕が「食える人」に変わった すごい仕事術


・僕が僕であるためのパラダイムシフト




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