taiwa -対話
WSD修了生の先輩のワークショップに参加した。
はじめましての人達と中々深い対話ができて凄く楽しかった!!
しかし対話自体の楽しさ以外に私が求めているもモノがある気がしている。そしてそもそも私は「対話」をどう思っているのだろうか。今日はそんなことについて書いてみよう。
誰と話すか
表現欲、、、という高尚なものではなく、最近のわたしはただただ書きたい欲にからまれている。それを私は「自己対話」と表現した。
では他人との対話に種類はあるのか?
私が感じたのは二つ。
一つはその人個人に興味や親しみを感じていること。もう一つは同じ経験を共有していること。
一つ目は主にある程度親しい人との対話。それは個人的なことを話せるという安心感。自分のかかえる事情や状況を理解してくれている人との対話は安心ができるし、相手の事情や状況も知っているので、相手を不用意に傷つける可能性も少ない。
そうお互いのことを知らないと不用意に相手を傷つける可能性があり、相手を傷つけることは傷ついた相手だけではなく、そんなつもりもなく傷つけた本人にも嫌な感情を残す。
しかし、それは厳しい話や辛い話をしないというわけではない。厳しい話や辛い話もできるのが親しい人との対話。
もう一つ、同じ経験を共有している人。私がしている経験は「同じまなび」を共有している人。「同じまなび」というのは「同じ学習プログラム」を体験しているということ。
更に言い換えると「同級生」や「同窓生」という表現がわかりやすいかもしれない。
「学び」をベースとした対話はその対話自体が「学び」となる。知識を増やす場合もあるが、多くは知識を深める役割を果たす。例えば一つのキーワードの解釈を他者から聞くと、自分とは異なる視点を得ることができ、自分の引き出しを増やすことにつながる。
ちなみに。会話じゃなくて対話がよい。議論でもない。
対話ってなに?
対話を私の言葉で説明すると、、、、
「自分の言葉で話し、相手の言葉を聴く話し合い」
なのかな、、、と思う(敢えて辞書はひかない)。
上っ面の会話なんてもうたくさん。とどこかで思っている。それは社交辞令や世間話というモノをさすのだけれど、それらはそれらはとっても大切で、私はとてもお世話になっている。
職場で憧れる先輩たちは世間話を上っ面じゃなく、とっても自然に話される。きっと技術とかそういう風に思われているのではなく、心から天気の話をされてる。。。。
そう、本来「対話」は相手を選ぶものではないのだと思う。相手を選んでいるのはあくまで私の都合であって、「対話」は本来誰とでもできる。
世間話を上っ面でしているのも私の問題。
気負うことなく自然であることができればいつでも、だれとでも対話ができるのではないだろうか。
おわりに
話す人の心持ちによっては誰とでもでき、心持ちによっては相手が限定される?いつか「対話」と「会話」と「議論」の違いについても話してもいいのかもしれない。
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