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ハイスクール

 高校入試。すべり止めの私立高校を受けた帰り、当たり付きの棒アイスキャンデイを買って何と3度も立て続けに当たった。2月の寒い日に4個キャンデイを食べた。それが原因かな。
 学校帰りにうどん屋で仲間とうどんを食った。唐辛子を目いっぱいかけて。それが悪かったのかな。
 受験中なので授業がなく、ただ学校にきてた時に友達と数人で柔道場で柔道をして遊んだのが、体にこたえたのだろうか。
 3月3日。本命の公立高校の受験前に、卒業式を1週間後に控えた時に、突然発症した。体がだるく微熱があり、強い倦怠感が襲った。病院に行くとすぐに大きな病院に移された。
 病名はネフローゼ。腎臓の病気であった。卒業式は無理でも何としても公立高校の入試には行きたかった。
 病院の先生に声は届き、なんとか学校の保健室で受験することができた。3日間、病院から受験場へ向かって試験を受けた。最後の最後の追い込み勉強はする余裕もなく、ぶっつけ本番だった。
 おかげさまで試験は無事受かり、志望校に行くことができた。もし落ちたら男子校に行かねばならないことになっていた。男ばっかりの学校とか、まっぴら御免だ。アイスキャンデイの呪いに打ち勝った。
 入院は2か月に及んだ。毎日暇だった。一番嬉しかったのは中学校のクラスのみんながお見舞いにきてくれたことと、当時仲の良かった女の子が別の日に単独で見舞いに来てくれたことだった。
 2か月ということは当然高校に入学しても入院中であるということだった。俺は病院から通学することになった。病院から学校までは3~4kmあったが、弱った足腰を早く戻すために歩いて通った。気候もよくさほどにきつくはなかった。ただ激しい運動は禁止されていたので、1学期の間は体育は見学であった。
 久しぶりに会った友達も数人いた。俺が卒業した中学校が入学当時14クラスまであり、2年生になる時に新設の中学校ができ、半数がそっちにいったのだ。その中に仲の良かった友達がいて、久々の再会に喜び合った。
 高校に入って一番嫌だったのは、ステロイド系の薬の副作用のせいで、顔面がまん丸お月様みたいになっていたことを、一部の先生や生徒がからかうことであった。生徒はともかく、先生がそんなことでいいのか?
 そういえば余談ではあるが、高校の先生というのは労組交渉をして、何とストライキをしちゃうのである。これにはびっくりした。法律で公務員がストライキなんてしてはいけなかったんじゃないのか?日教組が強かった、マルクスレーニン主義が、まだ一部ではこびっていた時代であった。もっとも一部の先生ではあったが。
 余談ついでに当時の高校はバイク通学OKで16歳になると、みんな原付免許を取りに行っていた。俺は先輩のバイクを校庭で運転させてもらって怖いと感じたので、受けなかったが。もっともバイク通学も2年生になると禁止になってしまったが。
 
 やっと退院すると俺はクラブ活動を始めることにした。新聞部に入った。中学でも新聞部だったので自然の流れだった。しかし新聞部は3年生が卒業すると部員が0になってしまうという危機的状態であったので、俺は救世主だった。同時に2年生が2人入部したが、経験者は俺独りだったので、俺を中心にクラブは回った。
 のちに数人入部し、数人退部し、出入りが激しかったが、2年生になると、メンバーも新入生を含め7、8人となり、安定した。
 2年生になると、生徒会選挙があった。新聞部ということもあり、生徒会とは昵懇の仲だったが、どうも生徒会委員長のなりてが見つからないのが生徒会の頭痛の種であった。委員長になれ、と脅迫を受けたが、俺が委員長になったら新聞部はどうなるか、人が増えたとはいえワンマンチームなのである。断りに断り続けて、何とか逃れたが、名前を貸すだけのつもりで、副委員長になることは承諾した。
 何とか委員長候補も決まり、信任選挙となったため、波風立たず、無事新政権が誕生した。俺は立場上、新聞部部長でいることは憚りがあったので、名目上、降りて院政を敷いた。
 生徒会は名前貸しのつもりで、新聞部での活動を主にしていて、全然生徒会にこない俺は、執行部と担当の先生の怒りに触れた。
 いきなり秋の体育祭の実行委員長にさせられた。いい迷惑であるが仕方がない。全校クラスの体育委員を前に準備の段取りとか必要な部材の手配とかをした。正直辛い思い出だったが、よく覚えていない。そもそもどこになにがあるのかわからなかったから、先生の言いなりになって動くばかりであった。
 体育祭は無事開催された。だが終了間際にハプニングが起きた。3年生の一部が出てきて皆でフォークダンスを踊ろうぜ、と皆をあおってきたのである。みんなとまどって、そのままの位置で成り行きを見てる奴ら、一緒にグラウンドの前に出てくる奴ら。
 さて委員長としてどうするべきか?とまどっていると、先生が大声で体育祭は終わり、と叫んだので、みんな沈黙してしまった。3年生のクーデターは失敗に終わった。
 体育祭も無事終わり、打ち上げになった。生徒会執行部の部室で行われた。アルコールも出た。新聞部の部室も使われた。よくぞ先生に見つからなかったものではあるが、さすが高校生である。俺も酒は初めてでもないので平然と一緒に飲んだ。流石に自転車で帰る時はフラフラして危なかったが。
 
 2年生の秋、修学旅行があった。京都である。広島から京都は遠くない。京都は中学校の時の修学旅行で行ったこともあるし、親と一緒に旅行に行ったこともある場所である。観光は班ごとに分かれてコースを決めて行ったり、全員で清水寺他にいったりしたが、事件は夜におきた。
 広島カープが山本浩二、衣笠、江夏等の活躍で一番強い時期であり、ちょうど甲子園で阪神戦があった日であった。5,6人が抜け出して、甲子園に応援にいったのである。ドラキチである俺は声をかけられることもなく、布団の中でチビチビとウイスキーのミニボトルを飲んでいた。
 帰りが遅いので、先生たちが慌てだしたが、やがて帰ってくると説教をくらわされ、正座である。翌朝、カープが勝ったスポーツ新聞の一面トップにバンザイする連中の写真が写っていた。
 修学旅行の次の日は2年生は休みであった。その日、生徒会委員長から電話があった。「修学旅行の打ち上げしようぜ」という誘いであったが、きついからという理由で断った。
 これが運命の分かれ道であった。学校で飲んでいたため、奴らはとうとう先生に飲酒が見つかり、現行犯で停学になってしまったのである。しかも新聞部の中もガサ入れがあり、酒瓶を押収された。新聞部のそして俺のピンチであった。
 親父が家でこの話を聞き、俺に「卑怯者」といった。なるほどたまたまその場にいなかっただけで、数多くの飲み会、部室や誰かの家、でやってきた仲間である。正義感の強い親父からすればそう映るだろう。だが俺が自首すれば、芋づる式にまだ捕まってない奴らまで迷惑がかかるだろう。誰が自首などするものか。
 翌日生活指導の先生に呼び出され押収された酒瓶を前にして「これはなんだ」と聞かれた。俺は間髪入れず「花瓶です」と答えた。部員の誰かが花瓶として持ってきたものだといいはった。いろんな角度から刑事みたいに聞いてきたが、俺は揺るがない。最後まで花瓶で押し通した。
 勝った。先生もあきらめて無罪放免となった。新聞部は救われた。それに生徒会執行部の委員長が停学になり、副委員長までそうなったら、カッコウがつかないではないか。

 中学生からやってきたギター。新しく友人になった文芸部のMと一緒に文化祭のコンサートにでることにした。講堂でそれはあり、別口で教室でもフォークコンサートがあったので、そちらは独りで参加した。どうもM
は大舞台だと緊張しないが、狭い中でするのは、お客さんが近すぎて緊張するからダメなんだそうだ。俺はその全く逆だった。講堂でのコンサートはまあまあ人が入っていた。だが後で後輩からコミックバンドとしてみられていたようで、ガッカリしてみんな帰ったそうだった。どうしてコミックバンドになるのか。Mとお互い顔を見あって妙に納得してしまった。
 そんな俺たちへ障碍者施設のコンサートがあるからゲストで出てくれないかという依頼が入った。その年入社したばかりの新米先生のはからいであった。大学でたての女性で、可愛くて人気があったのだが、なぜかいつのまにかその先生と仲良くなっていたので、声をかけてくれたのであろう。
 生活指導の先生がまた登場する。「そういうところへゲストで行って下手くそだったら本校の恥であるから、俺の前で演奏してみろ」といわれた。実はこの先生、何の経緯かはしらないがレコードを出している。俺は音楽にはうるさいぞ、という顔だった。物理の先生なのに。
 俺の作詞作曲の歌を披露した。合格点をもらえた。NSPの曲か、と聞かれ、自作です、と答えた。NSPでずっと練習したからなあ。
 コンサートは身体障碍者のバンドを中心に行われ、そのゲストとして参加した。大盛況だった。
 
 やがて3年生になり受験生となった。志望校は早くに決めていたので、あまり慌てることもなかった。俺自身生まれ故郷の福岡に郷愁の念があり、どうしても福岡の大学に行きたかった。石川啄木ではないが、西鉄電車の天神駅にいくと、どこからも博多弁が聞こえてくる。いいなあ、って感じである。広島はじゃけえのう、とか女の子でも自分のことを”わし”といったりするのが嫌だった。広島の人にすれば、それがいいのであろうけれど。
 そんなわけで志望校は早くに決めていたのである。合格ラインでもあったので、ちかっぱ勉強することもない。
 そこへ進路指導の世界史の先生、実は新聞部の顧問でもあるのだが、仲のいい先生で、そのおかげかどうかはしらないが、世界史は中国ブロック(中国地方の模擬試験)いつも2位だった。1位も同じ高校の奴でしっていたやつだったのだが、最終的に抜くことはできなかった。
 その先生がいうには「望みが小さすぎる。もっと難しい所を狙いなさい」ということだった。狭い中国ブロックの中では偏差値61くらいだが、河合塾とかでは57くらいなので、妥当ではないかとは思うのだが、まだ間に合うから勉強すれば1ランク上の学校に行ける、という理屈である。しょうがないので先生の顔を立てて同志社大学を受けることにした。同志社の試験は難しく、得意の世界史がいっちょんわからんで、選択科目の他の問題も一緒に配られていたので、数学の問題をずっと説いていた。つまりあっさりあきらめたのである。
 幸運にも志望校に合格でき、晴れて福岡県人になれたと喜んだ。受験の1,2,3月は仲間はみんなバラバラで、卒業式の時も誰かがいなかったりしていた。まだ国公立が残っていたからだ。
 おかげで卒業時にはみんなで集まることもできなかったが、最初の夏休みにみんなで集まって酒場で飲んで近況報告をしあった。ほとんどが浪人生であった。ガンバレとかいいながら別れた。今考えたらみんな未成年であったのだが、酒場とかで飲んでまあ、いい時代でしたね。
 大学も卒業し、就職の時期になると、もはや数えるほどしか連絡がとれなくなり、今どこでどうしてるか、元気してるか、気にはなっていた。卒業30周年で学校OB会主催で集まろうという連絡がきたが、遠方ということで断った。仕事も当然あるし。連中がそれに参加してるかどうかも懐疑的であった。

 平成26年と30年、広島で豪雨災害が起きた。災害のその後の状況を伝えるTVニュースをみていて、あっと思った。そこには髪が薄くなって老けたあの生活指導の先生が映っていていたのだ。TV局のインタビューに答えていた。なんて懐かしい。あの頃の思い出が蘇った、災害にあったのに元気そうだった。

 先生、災害お見舞い申し上げます。


 


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