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駆け落ち(超短編小説)

 そのホテルは街の中心、JR駅のすぐ近くにありながら、ひっそりと、目立たなく、一見、ホテルには見えない建物だった。看板がなければ、気づかなかっただろう。
 部屋は狭く、4畳半、布団を2つ敷けば、畳が見えなくなるほどの狭さである。その畳も古く、イエダニでも出てきそうな感じであった。風呂もなかった。トイレも共同である。
 とりあえず僕らは、ここで一泊することにした。誰も知り合いのいない街で暮らすための第1歩である。
 明日はまず仕事を探そう。2人の新しい出発である。住み込みの仕事があるなら、それがいい。そうなると工場か寮の管理人とかになるだろうか、駅で手に入れたアルバイトニュースのビラを見ながら、そう思った。
 彼女が部屋でお茶を入れてくれた。こんな部屋でもお茶くらいはあった。お茶菓子はなかったけれど。
 俺はお茶を飲みながら、アルバイトニュースを彼女に見せて、明日の予定を語りだした。彼女は黙って聞いていた。全て俺に任せるといった態度であった。ここまで来た以上、腹を括らなければならない。
 おそらくそれぞれの家庭では今頃大騒ぎをしていることだろう。警察に届けるだろうな、多分。だがこの狭くて広い日本の中で、埋もれて暮らしている人が何人いるのかは知らないが、今日からその仲間になるのかと思うと、恐怖心もあり、彼女とやっと2人きりで暮らせる喜びもあり、複雑な心境である。それは彼女もいっしょだろう。俺は彼女を抱き寄せた。もう誰も2人を引き離すことはできない。永遠に2人は一緒なのだ。
 
 ふとそんな夢を見た。あの時、勇気があれば、あるいは知恵が回れば、彼女と幸せになっていたかもしれない。あるいは彼女を不幸にしていただろうか。今自分が幸せなのか不幸なのかさえ分からない。彼女の夢を見るなんて、歳を取ったせいだろうか。俺の人生とは何だったのだろうか。彼女は今、幸せに暮らしているだろうか。そんなことを思いながら、俺は自分の人生について考え続けた。
 
 

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