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犬の床屋
柴犬のケンさんは奥さんと一緒に床屋を営んでいます。そのためかケンさんはいつもさっぱりした毛並みをしています。だって床屋さんがボサボサの毛を伸ばし放題にしていては店の信用に関わるからです。
ケンさんの床屋はいつも大忙しです。だって近くに床屋は、ケンさんの床屋しかないのです。今日も朝から待合室はお客様で満員です。
プードルは新聞を読みながら、自分の順番を待っています。このお客様はとても注文がうるさくて、自分が気に入らないと、何度でもやり直しをさせます。しかしケンさんもそこは慣れたもの、最近では、うまいごとプードルの気に入った毛並みを一発でカットしてしまいます。
となりにいるのはマルチーズです。この子はほんとは、毛を切るのはあまり好きではありません。だって毛を短くしてしまったら、だれもこの子がマルチーズだなんてわからなくなってしまうからです。それでも前髪が垂れて目が隠れ、うっとおしいので、しかたなくきています。
マルチーズの向かいに座っているのは秋田犬です。じっと腕組みをして座っています。この犬の場合は、マルチーズとは逆で毛が伸びすぎたら秋田犬らしくかっこよくならないので、いつもひと月に一回はきています。ただ他の犬と比べ毛の量は少ないのですが、体が大きいため、時間がかかってしまうから大変です。
今ケンさんがカットしているお客様はコリーです。毛がいつもふさふさしていて、きれいな犬です。それだけにケンさんは、注意深くカットしなければなりません。切りすぎても、残しすぎてもいけないのです。だからケンさんはいちいちコリーにききます。「ここはこのくらいでいいでしょうか」と。それでコリーは、よければ首をタテに振るし、悪ければ横に振ります。ケンさんはそのコリーの反応をみながらカットをすすめるのでした。
向こうのほうでは、ケンさんの奥さんがチャウチャウの毛にパーマをかけています。チャウチャウはふつう、自然にパーマがかかるのですが、この犬は他の犬の血が混じっているようで、つまり雑種なので、見かけはチャウチャウなのですが、うまく自然にパーマがかからないのです。それを気にしてだいたいふた月に一度、店にやってきて全身にパーマををかけるのです。雑種には雑種なりの苦労があるようです。だからといってケンさんはこの雑種のチャウチャウをばかにしたりはしません。奥さんだってもちろんそうです。いつもていねいにパーマをかけてあげるのでした。
そのときです。店にいままで来たことのないお客様が入ってきました。どうも人相の悪いお客様です。
この町に住む犬はすべてケンさんの店にくるので、ケンさんはその全部をしっているのですが、このお客様ははじめてみます。おそらくは旅人でしょう。
「いらっしゃいませ」
ケンさんがそのお客様をチラッとみていいました。
「すいませんが、混んでいるもので、待ってもらっていいですか」
そのお客様はそのことばをきいて、ムッとしたような顔で、他に待っているお客様たちをにらみつけました。とても怖い目つきです。マルチーズは当然として、秋田犬まで、そのにらんだ目をみて、おもわずゾッとしました。
「おおかみだ」
プードルがさけびました。そうです。そのみたことのないお客様は犬ではなくておおかみだったのです。どうりで犬にしては人相が悪いと思いました。
そのプードルのことばをきいて、みんないっそうおびえました。マルチーズのおびえなどかわいそうなもので、となりに座っている秋田犬の背中をつかんで離しません。
ケンさんも思わずハサミを持つ手にふるえを感じました。この町におおかがやってくるなんて初めてのことです。どうしたらいいかわかりません。
「警察をよべ」
カット中のコリーがさけびました。だけど別におおかみが何をしたということもないのです。ただカットをしにきただけでしょう。
ケンさんはそう思い、ふるえながらも、他の犬たちと同じように相手をしようと思いました。
おおかみも何もいわず、コリーを一回にらんだあと、他のお客様と同じように待合室の椅子にすわりました。
やがてチャウチャウのパーマがすむと、ケンさんの奥さんは、マルチーズをよびました。順番からすればプードルなのですが、あれだけおびえているマルチーズをさきにすませて、はやく帰してあげたほうがいいと思ったからです。しかし当然、気むずかしがり屋のプードルはムッとしました。そこへ奥さんは「プードルさんのカットは私では上手にできませんから」といいわけをしたので、プードルもそれはそうかもしれないと思いなっとくしました。
おおかみがきてから30分がたちました。そのあいだおおかみは何も言わず、ただ腕組みをしてすわっています。何もいわないだけにぶきみで、いつも犬たちのおしゃべりでにぎやかなお店も今日はシーンとしていました。
コリーのカットがすみました。つぎはプードルの番です。ケンさんはプードルの前までいって「おまたせしました」といいました。そして「今日はどんなふうにしましょう」とききました。
しかしプードルはそれにはこたえず、またカットをする椅子にも座ろうとしません。そして壁にかけてある時計をみるふりをしながら突然「あっ、いやいいんだ。ごめん。用事を思い出しちゃったよ。またくるから」といっていそがしそうに店をでていってしまいました。
ケンさんはしかたないな、というような顔をして「では秋田犬さんどうぞ」といいました。
秋田犬はのそっと体を動かし、ケンさんのすすめる椅子に座りました。そして「どのようにしましょう」というケンさんの問いに「いつものように」とだけこたえました。
あと待合室に残っているのは、おおかみだけになりました。おおかみは何もいわず、ただじっと待っていましたが、それがとてもぶきみに感じました。
そこへブルドッグのおまわりさんが、はぁはぁいいながら店に入ってきました。
「おおかみはどこだ」
おまわりさんはいきなりこういいました。おおかみはその声をきいて、おまわりさんの顔をみらみました。当然ながらおまわりさんもそれに気づきました。
「やっ、おまえがそうか。なんでこの町にいる」
おまわりさんは警棒をふりまわしながらそういいました。おおかみは何もこたえず、ただおまわりさんのブルドッグづらをにらんでいるだけです。
秋田犬のカットをしていたケンさんは、その手を休めて、おまわりさんにいいました。
「こちらのお客様はカットにみえられただけですよ。べつにおまわりさんがくるほどのことなんか、これっぽっちもしちゃあいませんよ」
しかしおまわりさんはなっとくせず「この町は犬の町なんだ。おおかみはきてはいけない。この町におおかみがやってきた、というだけでもりっぱの罪なんですよ」とケンさんにいいました。
それをきいたケンさんの奥さんは冗談っぽく「じゃあ鳥だったらいいのかしら。公園にいっぱいすんでいるでしょう。犬しか住んでいけないのだったら、あの鳥たちもみんな捕まえるんでしょうね」とおまわりさんに問いました。
おまわりさんは、それをきいてしばらくムッとした表情で、だまったまま何もいわず、奥さんのほうをみていましたが、やがてばからしくなってきたのか「すきにしなさい」とひとこといってでていきました。
それにしてもだれがおおかみのことを警察に知らせたのでしょう。たぶんプードルだな、ケンさんは思いました。
プードルはおそらく、ケンさんたちのことが心配で警察に知らせにいったのでしょう。ケンさんもおおかみがこの店に入ってきたときなら、おまわりさんがきてくれたほうがよかったと思ったでしょうが、今はちがいます。
プードルの行動はそれはそれで親切心ということでありがたかったのですが、今は床屋としてのプロ意識が強くはたらいているのです。どんなお客様であろうと、ケンさんに毛をカットしてもらおうとやってきているのです。しかもどこからかは知らないけれど、きっと遠くからわざわざきてくれたのです。これが床屋として、カットをするのをことわれるでしょうか。
やがてマルチーズが帰ると、ケンさんは秋田犬のカットを奥さんにまかせ、自分がおおかみのカットをしようと考えました。奥さんにさせるには気の毒だと思ったからでしょう。
おおかみがきてから1時間がたっていました。そのあいだおおかみはじっとまっていたのです。
「おまたせいたしました」
ケンさんがおおかみにいいました。おおかみはだまってうなづくと、ケンさんがすすめる椅子に座りました。
「どういうふうにカットいたしましょうか」
どんなお客様にも、まずこうやってききます。そのことばをきいて、初めておおかみが笑顔を見せました。が、すぐにもとの表情に顔を戻し「まかせる」とだけいいました。
ケンさんもまかせるといわれた以上、何もいいません。ケンさんのプロ意識がはたらきだしました。
それにしても犬の床屋仲間のなかでも、おおかみのカットをしたっていうのはケンさんだけでしょう。もっともケンさんとしては、そんなこと考えもせず、おおかみの毛に挑戦します。
おおかみの毛は手入れが全然いきとどいてなく、ところどころいたんだり、ばさばさになってたり、ダンゴができたりしてました。ケンさんが「かなり傷んでますね」というと、「初めて床屋にきたからなあ」とだけおおかみはこたえました。
「おおかみさんの床屋はないんですか」
ケンさんがききました。ハサミを動かしながらだったら、たとえ相手がおおかみだろうと何だろうと、こわいものなしです。なぜか気がおちついて、気軽に話しかけられるのです。
「ない。おおかみ自体、もうそんなにいないしな」
おおかみは気持ちよさそうに目をつむりながらいいました。
それからケンさんはいくつか、おおかみに質問をしたいと思いました。今どこにどうやってすんでいて、どんなくらしをしているかなどです。しかしおおかみがあまりに気持ちよさそうにしているので、ここでこんな質問をしてきげんを悪くさせちゃったら悪いな、と思いききませんでした。
しばらく二匹はだまっていましたが、顔をそりおわったころ、おおかみがポツリといいました。
「おれたちはべつに悪いことなんかなにもしていないのに、なんでみんないやな目でおれたちのことをみるんだろう。あんなちっちゃなマルチーズでさえそうさ。親がおおかみは悪いって教えたんだろうかね」
ケンさんはそれをききながら、しばらくだまっていましたが、やがて、
「なんででしょうね。わたしなんか床屋だから、犬だろうとおおかみだろうと、毛をカットしてきれいにしてあげることだけが楽しみなんですよ」
というと、おおかみを洗面所のほうへさそい
「初めてこられたお客様へのサービスなんです。通常は有料なんですが。なぁにシャンプーですよ。散髪が初めてならシャンプーも初めてでしょう。こわがらなくていいですよ。どうぞ」
といいました。
洗面所といっても、犬の全身にシャンプーをするためのものだから、どっちかというと浴室のようなもので、湯が外に飛び散らないようにちゃんとひとつの部屋になっているのでした。
「さあどうぞ」
シャワーの湯加減をみながら、ケンさんがいいました。おおかみはおそるおそるケンさんのいう通りにすると、何と気持ちいいではありませんか。こんなに気持ちのいいことははじめてだ、とでもいわんがばかりにおおかみは目を細めました。
やがてすべておわって、おおかみは店をでようとすると、ケンさんがどのお客様にもいうように「またおこしください」といいました。
その声をきいておおかみはおどろいたように問い返しました。
「ほんとうにまたきてもいいのかい」
「ええ、ぜひどうぞ」
ケンさんは笑顔でそうこたえました。
「ありがとう」
そういうおおかみの目はなんだかうるんでいるようでした。
「ありがとうございました」
ケンさんがいいました。
おおかみはその声を背にうけながら自分の家があるのであろう方向に向かって歩いていきました。それをお客様が誰もいなくなった床屋から、犬の夫婦が見送りました。
おおかみは現在どんどん数が減り、今やまぼろしの動物になりつつあります。