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【沖縄戦:1944年7月8日】県立宮古高等女学校に第28師団司令部が設置される 全島要塞化する宮古諸島と軍のハンセン病への警戒

第28師団の宮古島配備

 大本営は独立混成第44旅団と同第45旅団を第32軍に編入し、特に宮古、八重山諸島(先島諸島)の防衛に当たらせることとし、同第45旅団宮崎旅団長は6月22日、部隊に先行して宮古に到着、織物組合事務所に司令部を設置していた。
 ところが両旅団の主力部隊が乗船する富山丸の遭難により、沖縄の部隊配備計画の見直しに迫られ、満州に展開中の第28師団(櫛渕鍹一師団長)、そして独立混成第59旅団(多賀哲四郎旅団長)、独立混成第60旅団(安藤忠一郎旅団長)の宮古への配備を決定した。特に第28師団はチチハルで対ソ戦を想定していた精鋭師団であった。これら各兵団は9月までに配備が完了している。
 7月7日、第28師団福地春男参謀長は宮古入りし、この日県立宮古高等女学校に司令部を設置したといわれる。また隣接する平良第一国民学校には軍医部が置かれた。なお櫛渕師団長は20日に宮古に到着したが、第28師団隷下の歩兵第36連隊は紆余曲折あり一足先にチチハルを出発し、宮古島ではなく大東諸島に展開した。既に宮古に展開していた独立混成第45旅団は石垣島に配置されることとなった。

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沖縄戦の正式な降伏調印式で降伏文書に調印する軍人 第28師団櫛渕師団長の後任の同師団納見師団長と思われる 45年9月7日撮影:沖縄県公文書館【写真番号113-10-3】

全島要塞化していった宮古諸島

 宮古は第32軍の創設以前、ほとんど無防備状態であったが、43年9月に郷土出身者による特設警備隊が創設されている。特設警備隊は平良町に特設警備第109中隊、下地村に同第110中隊が配備され、将校は常置したものの、兵は在郷軍人を指名し、有事に際しては召集し部隊を編制するという仕組みであった。この特別警備隊は、後に独立混成第45旅団の指揮下となる。
 特設警備隊が設置されたのと同じころ、宮古島の平良の屋原(ヤーバリ)、七原(ナナバリ)、越地(クイヅ)の三つの集落にまたがり、海軍飛行場の設営のための土地の接収と建設がはじまった。土地は買い上げだが、地代は公債で充当されたり、強制貯金とされるなど、現金を受け取ることができなかった者もいたようだ。また土地接収にともない、現在の宮古高校付近の富名腰、鏡原小学校付近、袖山浄水場付近に代替地が割り当てられたが、そのうちの袖山ではマラリアが異常発生し、多くの人が犠牲となる悲劇も起きている。
 44年に入り第32軍が創設されると、さらに二ヵ所の陸軍飛行場の設営が決定された。飛行場建設作業には地域の人々が老若男女を問わず動員され、人々は戦局の前途が容易ならざることを認識したという。7月7日および8日には第32軍長参謀長(8日に第32軍参謀長に補職)が宮古を訪れて地理などを視察し、「宮古は攻め易く守り難い」などと大本営に報告するなどしている。確かに海岸線が長大な宮古島は敵からすれば攻め易く、山がないため味方からすれば守り難い地形ではある。さらに長参謀長は米軍が宮古に上陸し、占領すれば、一大航空基地を建設するだろうとも報告しており、宮古は戦略上重要な地として認識され、続々と軍の部隊が宮古に上陸し、配備されていったばかりか、軍事施設として飛行場だけでなく、砲台や水際障害物が設置された他、戦車連隊の一個中隊の配備により戦車壕が建設され、また特攻艇部隊の配備により特攻艇格納壕が建設されるなどした。
 その他、宮古には県立宮古中学校を司令部として海軍警備隊も配備され、陸軍中野学校出身の諜報要員による大本営陸軍部直轄特殊勤務部隊なる特務隊(特務班)なども派遣された。
 こうした大兵力の展開により宮古諸島の食糧事情が悪化し、マラリアの蔓延にもつながっていったことは既に何度か触れた通りだが、それ以外にも軍人によるトラブルも相次いだ。例えばこの年の秋には新たに宮古に到着した某部隊の隊長が酒に酔って日本刀を振り回し、部下3名を刺殺し、軍法会議にかけられ沖縄刑務所に送られるといったことがあったり、脱走事件、対空砲の暴発による防衛隊員の死傷、あるいは米兵捕虜の殺害など、様々な事件が発生している。

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宮古島地区防禦配備図 三ヵ所の飛行場と周辺島嶼も含めあちこちに軍が配備され、陣地が構築されていることがわかる:『沖縄県史』各論編6 沖縄戦

宮古のハンセン病患者と沖縄戦

 沖縄戦というと沖縄島の地上戦が想起され、宮古、八重山など離島には戦争の影響がなかったかのように考える人もいるかもしれないが、離島においても連日の空襲や飢え、マラリアといったかたちで人々には「死」が迫っていたし、上述のように人々は飛行場建設などに動員されたり、土地を失うなどの被害にあっている。
 また学徒隊なども沖縄島とかわることなく宮古にも設置された。例えば宮古中学の一年生から三年生によって鉄血勤皇隊が結成され、通信部隊に配属されるなどした。四年生や五年生は防衛隊に召集され、戦車への爆雷攻撃の訓練などをしたという。女子学徒も看護要員として動員されている。
 注目したいのは、宮古のハンセン病患者である。沖縄戦時、沖縄島ではハンセン病患者が大々的に沖縄愛楽園に収容され、非常に過酷な状況におかれていたことは何度か触れたが、宮古島にも宮古南静園というハンセン病患者の療養施設があり、44年の部隊配備とともに多数のハンセン病患者が収容された。
 宮古に駐屯した第28師団の参謀部は宮古各地を調査し、

第二十八師団参謀部「昭和十九年七月 宮古群島兵要地誌資料」
  [略]
第二節 衛生
衛生思想極メテ幼稚ニシテ衛生機関モ亦甚タ不備ナリ[略]宮古支庁内ニ麻刺利亜[マラリア]防遏所ヲ設ケラレ逐次年患者ノ減少ヲ来シツゝ[ママ]アルモ山林及排水不良ノ地方ニ於テハ今尚存在ス。
  [略]
本郡ニハ癩病患者多ク其ノ数実ニ六百名ヲ突破スト称セラレ保養院ヲ設ケテ之ヲ収容シ該病予防撲滅ヲ期シツゝ[ママ]アルモ宿営ニ方リテハ考慮ヲ払フノ要アリ
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

と報告しており、ハンセン病への警戒が見られる。また「衛生思想極メテ幼稚」という文言は、偏見や蔑視に基づくものである。沖縄島でも「最初にぶつかった敵はハンセン病患者だった」という兵士の回想があるが、こうした軍のハンセン病への異様な警戒は、そうした蔑視や偏見とあわせもって憎悪に近いような対応により、これまで地域で静かに暮らしていたハンセン病患者があぶり出され、大量に収容され、過酷な状況においやられていった。

戦跡と証言 沖縄県宮古島市ピンフ嶺戦争遺跡群:NHK戦争証言アーカイブス

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6
・瀬名波栄『先島群島作戦』宮古篇(先島戦記刊行会)
内閣府沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】:宮古編 宮古(3)
内閣府沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】:宮古編 宮古(4)

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キャプションには、沖縄戦の正式な降伏調印のため、「読谷飛行場に着いた、先島群島多賀俊郎少将の全権と民間人通訳竹村氏」とあるが、多賀俊郎とは第28師団長の納見敏郎のことと思われ、左側の人物は納見師団長とも考えられる また竹村氏を高村氏と記述する戦史もある 45年9月4日撮影:沖縄県公文書館【写真番号07-66-1】