【沖縄戦:1945年7月15日】「日本軍怖い、アメリカ軍怖い、同じ避難民が怖い」─日本兵の暴力と米兵の性暴力に苦しめられたやんばるの避難民たち
やんばる山中での日本兵と住民
この日、やんばるの山中に避難していた大宜味村の住民が米軍に投降し、収容された。
もともとやんばるの山中には、大宜見村など北部の住民の他、中南部の住民も北部疎開により避難していた。また護郷隊など軍の陣地もあり、そこに戦況悪化に伴い国頭支隊の敗残兵が逃げ込み、さらに南部から日本兵が米軍の警戒線を突破し北上してきたため、軍民が混在しひしめいていた。
沖縄の住民は日本軍を「友軍」と呼び、自分たちを守ってくれるものと信じていた。そのためやんばるの山中では住民が日本兵から戦況を聞き、返礼としてなけなしの食糧を提供するなどしていた。
しかし次第に日本兵と住民の関係に変化が生まれていった。日本兵は米軍への投降を禁じ、米軍による投降勧告を「デマだから信じるな」と呼びかけたが、例えば米兵に捕らえられた住民が殺されずに生きている姿を山中から見かけるなどし、日本兵の言動に疑問を持つ者なども出てきた。また避難生活の疲れからか米兵とばったり会ったとしても抵抗する気力も湧かずその場で捕えられたり、あるいは「コロサナイ」といった米兵の言葉を信じ下山する者もでてきた。さらには当初は情報提供の見返りで食糧を得ていた日本兵が住民を襲い食糧を強奪したり、あげくのはてには渡野喜屋事件のような住民虐殺事件まで発生するなかで、住民は日本兵に頼らずに投降をはじめるのであった。
保護、収容後の米兵と住民
投降には区長の命令があったようで、大宜味村の隣の現在の名護市源河では「区長の命令が来るまでは山から下りられなかったよ。[略]7月になって山から下りるように命令があって、避難していた人たちが全員下りて来た」という証言がある。
そうして下山し投降したやんばるの住民たちは、田井等収容所はじめ各収容所に収容された。住民は収容所で医療を受けることができ、不充分であったとはいえ食糧も配給された。日本兵の脅迫や暴力にさらされ、「米軍に捕まったら殺される」と吹き込まれていた住民たちにとって、それは信じがたい出来事であった。
もちろん米兵が心の底から住民の身の上を思いやって丁寧に扱ったわけではなく、ある種のイメージ戦略として住民を丁寧に扱ったことはいうまでもない。本当に親切な米兵もいたのかもしれないが、米兵による住民への残虐行為が絶えなかったことも事実だ。
例えばやんばるでは米兵による女性への射殺事件や性暴力が多発している。国頭村奥間のある住民は、投降した住民が行列をつくって連行されている最中、数人の女性が米兵に連れ去られたところを目撃している。あちこちで「アキサミヨー」「助けてくれ」と叫ぶ声が聞こえたそうだ。避難小屋に米兵が乱入し、女性を連れ去っていったということもあった。女性たちは顔に鍋のススをつけ、髪もわざとぼさぼさにして老人を装って身をも持ったそうだ。
また収容所でも米兵による性暴力の恐怖は絶えなかった。
こうした米兵による犯罪は米軍当局も認識しており、米軍側の沖縄占領に関する資料にも明記されている。
現在の名護市許田の住民は次のように回想している。
やんばるの山中での日本兵の暴力、投降後の米軍のレイプをはじめとした暴力、そして避難民同士の疑心暗鬼。おそるべきことは、もちろん米軍といえ性暴力は違法行為であり、見つかれば軍法会議にかけられるが、ほとんどは「住民が悪い」「女性が米兵を誘った」などとして、性暴力を犯した米兵の罪が軽減されたり免れることも多かった。住民たちはどこまでも軍と戦争に苦しめられたのである。
参考文献等
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・内閣府沖縄戦関係資料閲覧室【証言集】沖縄編:国頭郡
・林博史「占領下沖縄における米兵による性犯罪」(『季刊戦争責任研究』第80号、2013年夏季号)
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田井等収容所で軍政府の手助けをしている米海軍所属スミス中尉 撮影日不明:沖縄県公文書館【写真番号77-36-4】