一人でお風呂に入れた話
「いつもみたいに風呂入れん」ってなった日以降、初めて一人で風呂に入れた
入れんくなってからは、『美容室形式』にして風呂の蓋の上に寝て母親に頭を洗ってもらうというアイデアを母親が生み出してくれて、ずっとそれに甘えてきた
でも、ある一件が立て続けに起こって四日前から家族誰とも口を利いてなかった
まあ簡潔に言うと
「私って必要とされてるんかな」
「生まれてこんどけばよかった」
と思うような、いつもに増して孤独を感じるような出来事が家族を通して起こった
私の中で色々整理して気持ちもボロカス書いて吐き出した
口を利かなくなった期間、母親のさりげない愛情に気づいて昨日ようやく母親とは一言だけ喋れた
今日はすんなり喋れるようなってたから、髪を洗えるかと声を掛けたら、洗ってもらえるとの事だったので風呂場へ
そしたら湯船にお湯が溜まってて、聞いたら「お父さんが入ったから昨日のお湯がまだ残ってる」との事
ちょうど浸かりたい気分だったから、「入る」と言って初めて今まで風呂入ってた時と同じように洗面所で脱いで浴室に入った
母親は「髪洗うとき呼んで」と言ってくれた
母親が体調悪かったのもあるかもしれんけど
もう甘えてられない、いずれは一人暮らしもしたいんだ。と思ったら自分で洗えた
今までにあった息苦しさは、換気扇と今日の気候のおかげなのか全く感じなくてしんどくはなかった
洗いながら、『嫌われる勇気』の本を少しかじった時に見た『目的論』の話がよぎった
読んでた時は、そんな考えもあるんや〜くらいの感覚だったけど、今になって思い出した
目的論というのは、人は何かをするのに目的を持って動く、という事
「もしかして私は今まで、母親が心に寄り添ってくれなかった分、それを果たす為に“寂しさを埋める事”を『目的』として甘えてたんじゃないか」
「今まで寄り添ってくれなかった分の『孤独』を取り戻す為に“風呂に入れない自分”でいたんじゃないか」
(手がかかる方が、近くに居てくれるし大切にされるから)
まあ真相は分からんけどこういう考えがよぎったと同時に
自分の足で立ってると思ってたけど立ててなかった事
親がいないと虫も取れない事
誰にでも得手不得手があり、母親は寄り添う事は出来ないけど、その代わりに『物理的な面』でサポートしてくれてた事
私が(お父さんに貰えない愛情をお母さんに)求めすぎてたという事
愛情表現の仕方は“人それぞれ”
0から加点方式でいる方が自分を苦しめないという事
いくら親でも“他人”に自分を理解してもらうのは無理があるという事
何が起きても自分だけは常に自分の味方である大切さ
これらの事に気づいた
まあ本の内容については賛否あると思うし、私も盗めるとこだけ盗もうって感じ
でも『甘えてた自分』を責めない
それが私にとっての逃げ道だったし、そこを通らなかったら今ここまで気づく事もなかったと思う
初めてマイナスな出来事から学びを得た気がする
風呂を出たら、私が一人で風呂に入れた事を密かに一人でチョコ食べながら祝ってたとの事w
「すごい!」って褒められた
まあ私含め、人の言う事なんてその日の気分とか体調でコロコロ変わるもんだなって思ったら、ちょっと楽になった
私が私の味方でいればいいし、相手の得意な部分は相手に甘えたらいいし、苦手な部分を今まで私は相手に強要してたんかなって思った
母親は明らかにいい意味で変わったのに、それでもずっと『たまに言葉で私を傷つける事』だけが引っ掛かって、求めてばかりいた
何かが埋まらなかった
その穴が今日ようやく埋まった気がする
親でも他人なんだな、友達とかそういう類と同じような感覚で見れば楽だなって
四日前の孤独を感じる出来事は『私が自立する為』に起きたものだと受け取った
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