違和感の正体
はじめに
疾患者(精神障害)として生きていくうえで、ずっと心の中にしこりみたいな違和感がありました。
昨日思考が止まらないが、身体が重いという、混合状態でした。
ポジティブとネガティブの思考が入り交じったため、一方的に、夫にひたすら話して、1つずつ、自分の気持を整理していったところ、その違和感の正体に気が付きました。
その正体は今の世の中「理解する=受容する」になっていると、いうことでした。
なぜ私がそれに、違和感を持ったのか例えを交えて、記していきたいとおもいます。
1、理解する≠受容する
①理解すること
結論から言うと、私は理解することと受容することは『=』ではないと思っています。
理解するということは、相手の人格・障害・病気等について、聞いたときに、『この人はこういう世界観で生きているんだ』と感じ、自分の中でかみ砕き、その相手のことを正しく想像すること、だと思っています。
まず人間関係を構築していくうえで、他者を正しく理解することが必要になると、考えています。
②受容すること
一方受容することは、その人を正しく理解したうえで、その人と付き合えるか、付き合えるかということではないかと考えています。
その人がこうだから、『自分の思想・価値観・性格と合うかどうか』判断して出しお互いの答えが、受け入れられるのであれば『お互い受容する』という関係性が生まれてくるのではないかと、思うのです。
③受容する≠正解
現在の社会では、『受容して初めて理解してくれた』となっているような気がします。
ですがそれは、『本当の他者理解ではなく、受容することではない』と、私は考えています。
受容することだけが正解ではないからです。
『正しく理解したうえで、自分とは合わない』と思いながらも、相手に合わせていたのであれば、その関係は『対等ではなくなる』恐れがあります。
また、摩擦が生まれ、心身をお互いに削ることにもなります。
そうであれば、『強い関係性を強く持たず、距離感を持つことが大事』だと考えられます。
『理解して、受容することが必ずしも正しい』とは私には、思えません。
2、理解と受容の例
①障害の理解と受容
今は多岐にわたる障害を抱えている方々が、私も含め多くいます。
同じ障害でも程度や症状は、ことなってきます。
障害者の中でも、私が精神障害があるというのもあり、最も分かりやすい例なので、精神障害の理解と受容について、話したいと思います。
私は双極性障害という、精神障害があります。
双極性障害や鬱は現在、SNSを中心に「実は私もそうです」という方が意外にも多くいらっしゃいます。
インフルエンサーとして、偏見をなくす活動をされている方も見受けられます。
そこで多くの方は『双極性障害や鬱はこういう障害なんだ』ということは、理解できるのかなと思います。
ただし、理解してどう思うかは人それぞれだと考えられます。
理解して「大変な障害なんだ。頑張っているこのインフルエンサーを支持しよう」と受容する人がいる一方で「大変な障害なんだ。自分にはきっと受け止めきれないな」と受容しない、否、受容できない人もいるはずです。
またこんな人もいるでしょう。
「こんな大変な障害なんだ。何だかこのインフルエンサーの言うことにそっくりな症状の友だちがいたな。もしかして、その友だちも同じ障害なのかも。もっと詳しく調べて、ちからになりたい」そう思い、理解・受容し、さらにはもっとその人の力になるために勉強しようとする、そんな人がいてもおかしくありません。
中には正しく理解できない人もいます。
しかしながら、等しく理解した人たちでも「自分が生きていくうえで、その障害と向き合い、楽しく生活できる」と思う人が全てではないのです。
②性格の理解と受容
ここにポジティブで、明るくて朗らかなで、誰に対しても平等に接する方が、いるとします。
その方の性格は「一般的に見て良い人」と理解できると言えるでしょう。
ではその人を誰も彼もが、理解したうえで、受容ができるのでしょうか。
その答えは「いいえ」です。
なぜなら「正しく理解しても、受けてにも性格が存在する」からです。
素直な人なら「優しくて、ステキな人だから話したい」と受け止めるでしょう。
「この人はとてもステキな人だけれど、どんな生い立ちなんだろう」と、もっと深く理解したくなる人もいるでしょう。
では、自分の考え方と違うと感じる人はどうおもうのでしょうか。
例えばこう思う人もいるでしょう。
「色々助けてくれるのは、ありがたいけれどあの人のポジティブさについていけない」
そう思い、その人の性格を受け止めきれない方い人もいるいるはずです。
性格理解はできても、その方を好きになることができない人も必ずいます。
③学問においての理解と受容
これから、突拍子もない話かもしれませんが、「1+1=2」という数式がありますよね。
これを答えとして、認識し理解することはできるでしょう。
ただここで、物事のとらえ方の違いにより、受け入れられない人も出てくるのではないかと、私は考えています。
「1+1=2」をそのまま受容し、学習する人がいるでしょう。
「1+1=2」はなぜそうなるのか気になり、もっと深堀して、納得するまで、徹底的に調べて理解を深めたため、受容するのに時間がかかる人もいるでしょう。
「1+1=2」として理解しても、なぜそうなるのか分からず、受容できず算数が嫌いになる人もいるはずです。
このように揺るぎないことでも、人によって受け止め方が変わってくると、思います。
3,理解は求めても受容を求めない
「2」で挙げたように、みんなが他人のことや共通認識としてあることを、正しく理解しても受容できるとは、限らないのです。
理解してほしい気持ちは、だれにでもあります。
私自身、自分の障害を理解してほしいと思っています。
でも私は、「これは障害だから、しかたないのよ。これからもよろしくね」と、思いません。
受容するということは、簡単ではないからです。
合わない人や障害、自分では受け止められない共通認識のことを、受け入れるために自分の思考を変え、その合わないもののために、貴重な時間を費やし悩まないといけないからです。
また全ての人が受容するとことを望むということは、現代の多様性を重んじることと対比しているようにも、考えられます。
こちらが理解して受容してほしいように、相手も、障害・性格・共通認識を受容できないことを理解してほしいし、受容してほしいと思っているのではないかと思います。
さいごに
受容することは思っている以上に、難しいことです。
正しく理解することも、全員ができるわけではないからです。
仮に、理解されても合わないと思えば、双方が離れた方がずっと、楽しくて潤いのある生活を送れると私は考えます。
「受け入れてもらえなかったから悲しむ」ではなく「そういう考え方もある」と、受容されなかった事実を受容した方が、何倍も楽に生きられると思います。
同情や上っ面だけの付き合いは、疲れますし虚しくなるだけです。
それならば、受容してもらえなかった人のことを考えるのを止め、特性を理解して、自分に興味がある・好きと思ってくれている人のことを考える時間がもっと増やせば、結果的に「相手も自分も今以上に大切にできる」そんな気がしています。
理解を広げる活動は、とても大変だと思います。
だからこそ、受容してもらえなかったときは「自分とは合わなかったんだ」と、思える余裕が持てるようになればいいなと、思います。