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錯誤
また彼女の愚痴が始まった。
耳を塞ぐ訳にもいかずうんざりを顔に出さずに相槌を打つ。
最初の頃はなだめすかしたり、諭したり、励ましたりと会話を試みたものだ。
そのどれも彼女には届かなかった。
彼女は泣きわめいているがこの光景を見るのが何度目かももう忘れた。
繰り返し壊れたテープのように同じことを。どうしてその沼から出てこようとしないのか訳が分からない。
手も差しのべた。
ロープも投げた。
橋も架けた。
ボートも出した。
そのどれにも彼女は拒否を示し、また同じことを泣きわめき続ける。
いったい僕が何をしたというのだろう。
いつまでこの舞台は終わらないのだろう。
これまでの人間関係で傷ついたことは分かる。
よくそこまで悪縁を手繰るものだと感心するほどに巡り合わせの悪いことも気の毒だと思う。
だがそのいずれも僕では無い。
僕がそれまでの誰とも違う人間だといつになったら理解してくれるのだろう。
目の焦点も合わずに目に見えない誰かに延々と謝罪し、怯え、幼児退行している彼女を最初は気の毒だと思った。
出来ることがあるならしてやりたいと思った。
だがこれは駄目だ。
関われば終わりがない。
巻き込まれたら果てがない。
彼女の謝罪が終わる日など来ない。あるとしたら今までに彼女を傷つけたという全ての人間から謝意を述べられることだろうが現実的では無い。
僕の信じて欲しいに根拠は無い。
ただ彼女のあなたも今までと同じにも根拠は無い。
いまだ裏切った、そう傍から見れば裏切った、離れた人間のその後を確認してはそのたび不安定になることもいい加減周りの負担だと気づいてくれないものだろうか。
今日100度目くらいの「ごめんなさい」
今日50度目くらいの「許してください」
今日25度目くらいの「死んだらいい?」
何が正解か分からない。
もう無いよ。
僕も疲れたよ。
離れないでに応えられないよ。
信じたいならせめて話を聞いてくれよ。
ふと頭に名案が閃いた。
僕は逡巡するととびきりの、最近でいちばん晴れやかな笑顔で、彼女に呼びかけた。
「ねえ、あなた」
彼女が怯えた目で見ている。言葉で殴られると思い込んでいるのだろう。
「こういうのはどうだろうね」
「僕が、死ねば楽になるでしょう」
そうして僕は、そのまま、彼女から取り上げていたカミソリを首筋に当てて思い切り引いた。
「生きて」
ああ。彼女の姿が横倒しになっていく。
はじめて見る光の点った綺麗な瞳に、血飛沫が映っていた。