相も変わらずドキュメンタリーを眺めている
どれをという訳ではないが、ドキュメンタリーを見ていると画面の中の雰囲気が統一されていると感じる。それを見ているこちら側も段々と気持ちが一色になっていくようで、テーマによっては番組が終わった後もしばらく引きずるようにそうした気持ち(往々にして暗い気持ちが多い)が持続する。
放送された内容はいずれも現実に起きていることなのだから、どれだけ暗澹たる気持ちになろうとも正面から受け止めるべきだ、というような意見は尤もである。私は反論しない。しかし、そうした事実を受け止めることと気持ちが一色に染まることは話が別ではないか。
物事を受け止めるというのは、文字通りコミュニケーションの語彙であり、受け手の自己意識だけで完結するものではなく、その様子を見ている送り手側との相互関係を含んでいる。そうである以上、受け止め方(それが「受け止められた」かどうか)は共有された基準によって判断される社会的・文化的産物であって、それぞれの共同体の構成員は自らが帰属する共同体内で流通している形式を学習する。個人が何かに打ちのめされた時、その心情が号泣やすすり泣きで表れるか、一点をじっと見つめるだけなのかが異なるのはそうした学習の成果だ。
そういったことは他者を交えた次元(リアクションの所作)の話であって、自身の内面の話とは別だと思うかもしれないが、そうして学習された感情の表出の仕方は、単なる方法に留まらずその感情そのものについても少なくない影響を与えている(実体論とか認識論という話はしません)。先の例で言えば、涙を流す(という形で現れる)人とそうでない(形で現れる)人の内部で起こっていることは異なっているはずで、「悲しい」や「激しく打ちのめされた」という言葉では同じ表現だが、それぞれは本来似ても似つかぬ状態にあり、それぞれのやり方を繰り返しているうちに当の感情自体も強化されていく。念のために言えば、方法が内容を規定すると言いたいのではなく、方法(表出)が異なれば内容(感情)にも差異があると考えるのが自然だということで、安易な二言論は役に立たないどころか大きな害となる。
わたしがドキュメンタリーを見て気持ちが一色に染まっていくように感じるのは、映像が映し出す画面の向こうにある現実によってではなく、わたしが長い時間のなかで学習したある種の「真面目さ」ゆえであり、わたしはそうした学習成果を手癖のようにあらゆるものに当てはめ、反復しているのではないか。
さしあたって書けばこういうことになるか。
断っておくが、わたしはドキュメンタリーが実態を写していないというのではない。ここまでの流れに沿った言い方なら、その映像が実態を捉えきっているかどうかは二次的な問題で、それがどの程度であるにせよ、わたしはやはり同じ手つきで受け止めるのではないか、ということだ。
なんだ、それじゃどんな内容でも、極端に言えば内容なんか無くたって同じなんじゃないか、というのは全く違う。AとBという2つの番組があれば、それを見たときの態度や考えることは違ってくるが、しかしそれは同じ操作の産物として結果的に異なっているのであって、今はその操作の話をしている。
あるいは、「それは所謂『構造』というもので、人間は自由に考えているように見えて実は構造に沿っているだけだし、時間のなかで変化は起こるが、その変化の仕方は変わらない」というような意見も想定できる。そうかもしれない、というか殆どそうだと思うが、しかしそうなると、わたしはある種の反応の仕方を学習して「真面目」に反復する一方で、わたしに反応を引き起こさせたところの対象に対しては、その「真面目」さを当て嵌める「不真面目」さを保持し続けていると言える。わたしが「彼方側」の対象に「不真面目」であることによって、「此方側」でのポーズを取るということなのだが、「不真面目」=いい加減という訳ではなく、むしろ「不真面目」でいることに勤勉であるというような態度であって、間違って他のあり方をとってしまうということがない。つまりは、「真面目」の裏返しで同じくらい強迫的だということだが、どちらにせよ、何度繰り返しても過誤なく同じ結果に辿り着くことが前提で、何故こうなってしまったのかと突き付けてくるようなハプニングやエラーが想定されていない。良い悪いではなく、わたしはそこに引っ掛かってしまう。
わたしはドキュメンタリーを見ることで、「今・ここ」ではない世界を知る。一般性への回収を拒絶する個別事例に限りなく接近し、全体像を視野の外に追いやることによって初めて見えてくる微細な差異と、それでもなお不可避的に立ちのぼってくる可能性の前提条件としての社会構造を同時に、重ね合わせるようにして ー あたかも錯視画像のように ー 看取する。個人とそれを取り巻く社会にまつわる遠近法の撹乱がドキュメンタリーの手つきであるとすれば、その効果が最も発揮される場所は画面(スクリーン)の目の前であるはずだが、では画面の外にいるわたしたちの遠近感はどうなっているか。
画面の此方側にいるわたしは、映像を見ながら遅い昼食を摂っていたり、窓から見える電柱に何処かから鳥がやって来て、少しの間止まっていても、辺りを伺うように首は絶えず動いているのが目に入ったり、時計の音に刺激されて今日の夕方に買い出しに行くものを思い出したりしている。映像の内容についてだって、その映像がきっかけで全く関係ない記憶が思い起こされて、過去に読んだ本とそれを読んでいた時の状況が鮮明に浮かんできたり、あるいはどういう繋がりか自分でも分からないけれど、記憶(というか感情)が共鳴したというだけで、全く脈絡なく友人と出掛けた時のことを思い出したりと、当の映像の内容とは異なる次元の何かが付け加えられている。こうした各々の散漫さは、画面の彼方側の事象が此方側にもあり得たとして双方の関係を結ぶ機能(思い入れ・同情)があるはずだが、それと同じぐらい散漫さによって対岸の火事の如き無関心になる可能性もある。
わたしが「此方側」で「彼方側」を観ているということは、わたしは今「彼方側」にいないということで、また「彼方側」から見てわたしは外部にいるだけではなく、「此方側」ではないものを知ったことで、単に「此方側」にいるだけでなく「此方側」の外部にもいる。つまり「彼方側」「此方側」という俯瞰的な視点が産まれる場にいる。
自分の姿を少し上から眺める自分、というような言い回しがあるが、道具なしでは自分の姿を確認できない人間にも自分を眺めるような視線が根付くわけで、それらは自分が外部を認識する際に行う操作がそのまま「内部に向かっただけ」という説明もできるけれど、それでは単に結果を述べているだけで「内部に向かう」ということがどういうことなのかは全く分からない。元々自分の中にあった認識の操作が、自分の外に切り離されて外部の存在であるかのように認識してしまう、あるいはわたしが認識するという行為(述語)が、その効果として発生した視線を媒介にして、認識するわたしに転倒(名詞化)することで、外部の存在と勘違いしてしまう、と言ってみても分からなさは変わらない。考えはまとまらないが、いずれにしても、「彼方側」を知ったわたしが、自分と「此方側」との結び付きを確かめるために俯瞰的な視線を必要とした。しかし、その俯瞰的な視線こそがわたしと「此方側」との結び付きを切り離すものであって、これらはどちらが原因で起こったということでもなく、同時に起こった。
本当は時間も空間も俯瞰することができるものなどなく、教科書などでよく見る太陽系の運行を示した軌道だって、実際はあんな風に見える視線はないし、そもそも小惑星や浮遊物体でゴチャゴチャしていて一望できるはずがない。そういう意味で俯瞰するとはモデル化であり、極めて抽象的な技術であって、ここまでの流れに即せば散漫さを捨象して何かに集中することという言い方も出来る(ここでいう散漫さとは、像が定まらないことではなく、「全体」を仮想的にでも視覚化することが出来ない状態を指す)。
遠近法の撹乱としてのドキュメンタリーが垣間見せる「彼方側」によって、画面の「此方側」にはそれまで意識しなかった遠近法が生じている。より正確に言えば、遠近法を可能にする仮想的な均質空間を俯瞰する視座が発生している。そこでは最早「此方側」から「彼方側」を眼差すのではない。「此方側」も「彼方側」も同一座標平面上に等しく並べられており、全く透明となったわたし(視線の始点)が方法的に想定されるだけである。しかし、一方でこの透明なわたしは「此方側」の散漫なわたしから生まれてきたものでもある。「此方側」にいるところのわたしは、猥雑で散漫で不真面目な視線を持つ一方で、全てを同一座標平面上に配置する視線も併せ持っており、両者が生み出す像はひとつとならずに重なって見えている。
何段落か前で書いたように、わたしはドキュメンタリーを見ながら目の端に映る鳥に注意が向いていたり、全く関係のないことを思い出していたりする。画面の向こうの出来事が、全く異質のものとして分割されることなく、わたしの内に占められなければならないとすれば、わたしは外部からの出来事に対し、常に受け止めに失敗し続けている。一冊の書物はそれが読まれたとき、ひとつの全体として読み手のうちに留め置かれることなく、バラバラにほどけて記憶へ埋もれていくように、画面上の出来事は「さはさりながら」という具合に私の中に散り散りに堆積していく。
そうした単独性、「彼方側」の文脈を繋ぎきれない過剰さを持ったわたしは、しかし、そうした要素をまさに俯瞰によって整序されてしまう。当初は手法であった遠近法の撹乱は、結果として「撹乱された遠近法」となり、つまりは確固とした「景色」へと変態して遠近法を強化する。いいかえれば、わたしはそれを可能にする手法を忘れ、その結果だけを引き受けようとしている。そこにはもはや「錯視」はなく、安定した構図が備わった事後的なものがある。わたしは同じドキュメンタリーを見るたびに新たな発見に出会う。しかし、それは確認(再現)のための自己破壊であり、予め折り込まれた過程なのであって、エラーではない。
ところで、本来そうした散漫さ、不真面目さは乗り越えられるべきものなのかもしれない。わたしが「此方側」にいて「彼方側」を生きることが出来ない以上、決して達成することは出来ないが、だからこそ目指すべきものとして、可能な限り「彼方側」に接近することを試み、そして失敗し続けなくてはならないのかもしれない。それは言い換えれば、失敗に成功し続けなければならないということだ。しかし、果たしてそれは可能なのだろうか。むしろ「此方側」のわたしは、どこかで失敗を失敗してしまう、つまり何かの拍子に成功したことと見なして、不断の失敗への試みを中断してしまうものなのではないか。そして、それは「彼方側」の立場と同化したから(当事者が理解できたから)ではなく、あるひとつの形を与えた、という視覚化 ー 本来であれば目的への手段のひとつだったものが、その継続に必要であるとはいえ、厳密な運営を重視するあまり、当の目的以上の重要性を帯びていくかのように ー がもたらす快楽にしたがって、像が二重に見える視界を補整すること=「此方側」の忘却により起こるものなのではないか。
当然のことながら、俯瞰的な眼差しは対象の認識には不可欠である。それは複雑な世界の理解を助け、そのうえでどのような態度を示すかを決定する大きな助けとなる。しかし、俯瞰が可能なのは視覚化された後であること、もっといえば俯瞰そのものが視覚化の起源となりうるということが忘れられてはならない。先にも書いたように俯瞰という行為は多分に抽象的な技術であって、それはある対象を「見られる形」にしないでおかない(視覚化しないでおかない)。というより、そうした形にする行為を俯瞰という。わたしは観てしまった後から考える。わたしが見つめる画面に映っているのは、ある一つの事後であり、顕在化したものである。そして確かとなったものから逆算するように事態を考えていく。しかし、その逆算は「こうなってしまう」にあたって生じた飛躍を見えなくしてしまう。それどころか飛躍が成し遂げられたということ自体が忘れられてしまう。
わたしは「彼方側」ではなく「此方側」にいるが、究極的には「彼方側」で起きたことは「此方側」で起きてもよかった(おかしくなかった)はずだし、わたしが「此方側」ではなく「彼方側」であることもあり得た。両者は同じではなくて、「彼方側」だったかもしれないわたしは、ここに書いてあるわたしとは全く別物であるはずで、それを同一視して考えを進める過程にはやはり俯瞰の力が前提されている(ややこしいことだが、純粋に「此方側」「彼方側」だけの視線というのもまた存在しない。)
「彼方側」で起きたことは後から見れば起きるのが半ば必然であったかのように見えても、進行中は数ある潜在性の一つに過ぎなかったし、全く異なる結果となる可能性もありえた。同じ原因が時(あるいは人)によって全く異なる結果をもたらすというような、厳密な因果関係が成り立たない瞬間というものは、日々暮らしていくなかで頻繁に遭遇しているけれども、そういう偶然性というか渦中の曖昧さ、不安定さのようなものは事後的に見えなくなってしまう。あたかも初めから一つの流れであったかのように錯覚してしまう。
そうした不可視化は、わたしが意図せず繰り返してしまう「手癖」と繋がっているはずで、一般的には「此方側」の限定的な思考に偏ることが、ある種の思考形式(型)を形成すると考えられるが(事実そうなのだが)、しかしそれは俯瞰にも同じことが当てはまる。「俯瞰的」な視線とは、言ってみれば「此方側」を「括弧にいれる」ということであって、実体として捉えられるべきものではない。また、括弧にいれたのであれば、同様に必要に応じて外されなければならない。俯瞰的な視線は「此方側」のわたしから生まれると書いた。それは「此方側」を揺るがすような出来事がもたらす、強い視差によって成立した「結果」であり、繰り返しになるが実体として何処かに存在しているわけではない。この「結果」を自明と見なすこと、言い換えれば、括弧にいれたという事実そのものを忘れることが、私たちを取り巻く「手癖」の条件である。わたしは自らの認識の起源 ー 飛躍と補整 ー を忘却する。それは見出だされたものを起源とする転倒を引き起こし、その転倒自体もいずれ見えなくなる。いわば幾重もの忘却を勤勉に繰り返している。