ある日の

「今流行りの◯◯って、知ってますか」

恐らく、相手が知らないことを期待して投げ掛けられる、それらの質問。もちろん悪意があるわけではないのだろうけど、この投げ掛けはそれ自体によって、両者の関係性を形作ることになっている。テレビなんかで見るのは、相手がきちんと正しい意味を知っているかの確認で、それは質問を投げ掛ける側と投げ掛けられる側が同じものを共有してるか、という幾重にも折り重なった、いわば答え合わせなのであるんだった。
だから、頓狂な回答が返ってきたときに、その正解との距離がそのまま質問者と回答者との距離になっていて、それはテレビ越しに見ているわたしにも当てはまる遠さと近さでもある。
でも。もしもその距離を無視してしまう人であったら、答えを自分の方に引き寄せてしまうようなエネルギーを見せつけられたら。わたしは一瞬戸惑いながらも、そのパワーに笑いを止めることが出来ないかもしれない。

「今流行りの◯◯って、知ってますか」
「知らない、△△ってこと?」
「いや、そうじゃなくて◎◎のことですよ」
「そうなんか。でも自分の周りには、そういうのないしなぁ。うん、△△という意味で使っちゃおう。なんか◯◯って響きもいいし。」

夥しい量の言葉や思考が日々生まれ、それらの幾つかが偶然にも広く、急速に流通するようになり、また同じくらいの早さで廃棄されていく中で、セカンドハンドのように別の形で使い直されるようなこと。よく知っていると思っていた人間が、暫く見ないうちに自分の知らない面を増やしていくことに気付いたとき、お互いに別々の時間に生きているのだと突き付けられると同時に、これまで自分と相手が共有していると思っていた時間も、もしかしたら相手は違う文脈で――その人が積み重ねてきた時間の延長の中で実感されていて、つまりは共有ではなく分有であったのだと、時間が遡って補整されていくあの感じ。
自分たちに馴染みがあった言葉や思考が、何処かの誰かの全く別の時間に接続されて、形を変えて行くのを、テレビの質問者やそれと近しい場所に居合わせる人は、やっぱり笑って見てられるのだろうか。答え合わせが、そもそも成り立たなかったのだと、白紙の答案用紙を突き返されるまで引き受けられなかった、私たちは。

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