雑感
「インターネットに自分の意識をアップロードする」というようなSF作品を見たが、その作中、アップロードを試みた登場人物は、意識(精神)の移転と引き換えに肉体を捨てた。しかし、考えてみればなぜ肉体は空になるのか?肉体は脱け殻になるわけではなく、肉体を持つ「私」とネット上の「私」の複数になる、という方がしっくりくるのではないか?電子ファイルをやり取りするのだって、端末から元データが消えることはない。むしろ肉体に「私」を残さないよう徹底することの方が、技術としては難しいのではないか。
デジタルの利点は複製の容易さであって、態々オリジナルを移したりせず、コピーするのが自然だ。というより、オリジナルとコピーという区別が意味を成さなくなる地点がデジタルだ。しかし、むしろこの「切り取り」の発想が、人間の精神や意識を考えるうえで、唯一性に如何に重要な位置が与えられているかを逆説的に示している。「私」は唯一であり、同時に複数の場を占めることができないという人間観、あるいは不可能性こそが「私」を巡る問題意識の条件であり、かつ安息地でもあったということで、そうした前提が崩れれば、問題の立てられ方も変わるはずなのだが、「脱人間」を掲げる見かけに反して、人間的な立場は揺らいでいない…。