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茫と、ドキュメンタリー、旅

このところ、衛星放送、しかもドキュメンタリーや旅番組ばかりを見ている。
いま、ここではない何処かの楽しんだり(画面に映るのは圧倒的に此方だ)、苦しんだりしている人々の暮らしのようなものを、暮らしの中からは出てこない眼差しで以て眺める。
こうして視聴者に届くのは、いわば出来事であって、しかし実のところ暮らしというのは、出来事と呼ぶにはあまりにも些細な、出来事未満とでも名付けるべき時間の連続であることは、実感として分かっているのだから、安易な羨望や理想化、感傷の投影は慎むべきであり、危険ですらあるというのは百も承知であるはずなのだ。
しかし、そうであっても画面の向こう側にいる人々が活力に満ち、喜びに溢れ、苦難すら噛み締めるように味わいながら、それぞれの時間を過ごしているという考えを持ってしまうし、そう思わざるを得ない。繰り返すが、それが無い物ねだりの理想化で、階級社会や搾取構造やら無力感やら、そこで暮らすことに取り巻くあらゆる困難が抜け落ちているのは分かっているのにだ。

或いは街並みや大自然の広大な風景について。
美しい街並みは画面の中で行儀よく収まっているし、広大な草原の景色は何処までも拡がっていくような感じを覚えさせるのだが、しかし、実際に行ってみると、何というか何処までも収まりが悪いし、ひたすら拡散していくような漠とした感覚になるものとしてある。うまく言えないが、その風景を構成する要素同士の相互の位置関係が安定を欠いている印象を受ける、或いは可能な限り拡大コピーした1枚の写真のその最中にいるような感じがする。
どこまでも拡がっていく、とひたすら拡散していく、との間にどのような差があるのか?と思うかもしれないが、私が実際にその場に立って周りを見渡すときに感じる空間の広がりは、私に関係なく四方八方に存在する。それぞれの位置関係が安定せずぐらついているのだから、私というものは常に後回しにされ、ひたすら置き去りにされる。当然なのだが、画面の中ではないのだから遠近法というものが存在せず、風景はわたしを元に広がっていくということがない。わたしはいつでも世界に遅れてやってきている。

これらに通じるのは編集、というよりカメラ(むしろレンズ)を通した時空間の凝集効果であって、カメラは目の前の対象を切り取る(写し取る)といわれるが、しかしそれは正確ではなくて、目の前のものを配置し直している。わたしは写真と現地での印象を比較して、画面に収まりきった事物を見るにつけ、どうしても「煮凝り」を連想することを止められない。スープをフォークで食べるやつはいないが、煮凝りは刺したり摘まんだりできる。実際に見る風景と写像には世界との接し方にそれほどの差がある。
わたしと対象の間にある空間は、ただ透明に其処にあるのではなく、みっしりと充満している。写真と映像から視覚によって受けとる印象と実際にその空間の前に立った印象(「空間の前に立つ」?。果たしてそれはどんな状態なのか)が異なるのは、視覚が突出して働くことで普段わたしが世界と接するバランスが崩れているからではないか。
写真や映像に映るのは視界ではなく、視線なのだと考えれば、納得がいく。視線である以上、それが誰のものかいう話であり、すなわち誰の意思なのかという話になる。わたしが見ているのは、誰かが伝えたかった世界で、カメラを持って現地に立っている人の目を通して、今此処でない世界を見ている。だから、それは安定している、とここまで考えて、わたしは急激に気分が萎えた。こんなことはつまらない。こういうことを言いたかったのではない。

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