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貴方の周りの人々は、貴方は「スマホ依存症になるべきだ」と言っている。

例えば、例えばだ。
貴方はログハウスに住んでいる。
東向きの窓からは朝日が道路わきの雑草を照らしているのが見える。窓の向こうに広がる緑色は風にふかれて草原のようだ。少し退屈そうなキジバトの鳴き声も聞こえる。細かく羽を震わせて土浴びする雀は愛らしい。

家の裏は、なだらかな丘になっており彩豊かな果樹がなっている。夏には柔らかいピンクの桃がなり、秋には毬栗が刺激のある風景を演出する。今年も渋柿がなっていた。冬にむけて軒先につるそうと貴方は考える。
理想的なつつましい生活に見えるが、この家には1つだけ欠点がある。川が遠いのだ。

 代わりに家の裏には井戸がある。常に水が流れている。ただこの井戸が厄介で気まぐれの「量」しか水が流れないのだ。期待を膨らませ、縄に手をかけた。しかし今日はロープに吊るされたバケツを垂らしても井戸の底から「カラン」と空虚がこだましただけだった。1センチくらいだろうか、引き上げるとバケツの底にほんの少しだけ水が見えるのだ。その水で貴方は口をゆすいだ。

かわいいー!スズメちゅき!この写真スズメ…だよな?



初代iPhoneは2007年に発売された。androidも発売されたが、こちらが私の印象から薄いのは種類が多すぎて覚えていないためだ。
2007から約16年が経過した現在ではスマートフォンはインフラになってしまった。家の玄関を抜けるときは200gのPCをポケットに突っ込まないといけない。
縄文人がヒノキの籠を持ち歩いたように情報のカゴを持ち歩く。
これが無いと生活が苦しいのだ。気の休まる夕食時も気になる。
夜には枕元にはケーブルにつながれたスマートフォンと添い寝をする。カワイイ相方だ。

人間は小さな刺激に弱いと本で読んだことがある。小さな快楽は少しずつ日常に入り込む。日常は心地よさに満たされ、やがて「ソレ」がないと生きられなくなる。
 刺激とは快楽とは元来、生活における成功、つまり正解の報酬だった。木の実を見つければ「やった!」と嬉しさがこみ上げる。
川の香りは水にたどり着くためのコンパスになるだろう。生きるため正しいことだから逃れることは困難を極める。だからスマホが手元にあるのが当然なのだ。



話が大きくそれるが許してほしい。

快楽の方程式を知っているだろうか?
少し荒っぽい書き方なのでゴシップ紙程度に捉えて欲しいが、

「快楽の反応=実際の快楽ー予測した快楽」

となる。この快楽はドーパミンニューロンの発火である。人間で例えると、
目の前にラーメンが出てくる、この時おいしそう!と感じ、それが予測より美味しかったなら口に含んだとき‘‘最大の旨い‘‘となり、
予測通りなら口に含む‘‘前の方が旨い‘‘と感じ、予測より美味しくないと‘‘不味い‘‘となる。

 サルの点滅実験がある。この実験では、サルの目の前にはモニターがあり、3種類のランプのうちいずれかが、2秒間つく。
ランプが「緑」なら2秒後の消灯時、甘いシロップが出てくる。「赤」のランプなら2秒後にランプが消えてもなにも起こらない。

サルは通常ならランプの色に限らず、シロップが出た時にドーパミンニュートンが発火(快楽)する。しかし、サルはこの色の条件を学習すると、緑のランプがついた瞬間にドーパミンニューロンが発火(快楽)するのだ。
 問題なのは青のランプである。青のランプは点滅後、50%の確率でシロップが出てくる。つまり点滅すると出たり出なかったりする。
するとサルはどうなるのか。青の光が出た瞬間少しニューロンが発火し、その後ランプが消える1.8秒間まで徐々に発火レベルが高まるのだ。青ランプがついた時、快感を感じ、そしてランプが消える瞬間に最高潮に達する。

これはどういうことだろうか?
例えば、いわゆるギャンブルの待ち時間に近いと考えられる。カップラーメンでいえば3分間の調理時間かもしれない。
こういう、結果が良いか悪いかわからない、リスクがあるときに快楽を感じやすいのかもしれない。

いらすとやさんのサル可愛い

 スマホではどうだろうか、スマホはそれ自体が生活必需品であり、快楽をもたらすものである。しかし同じ生活必需品の財布では、それを持ち歩くだけでは心地よくならない。同じく日常的に身につける腕時計でも何も感じない。
ウォークマン(若い子調べてね…)は忘れるとがっかりはするが何とかなる気がする。

でもスマホは絶対になくてはならない気すらしてくる。それは生活必需品の範疇をどこか超えているように感じる。




個人的に思うにスマホの「通知機能」はギャンブルではないだろうか。


この「通知」は電話かもしれないし、メールかもしれない。SNSの通知かもしれない。‘‘推し‘‘のライブ開始通知かもしれない。スマホがなるその瞬間、期待に胸を膨らませる。開くまで結果の分からないギャンブルと同じ事が起きるのではないだろうか。


その通知は迷惑メールかもしれないし、嫌な上司(でも反応しなければならないもの)かもしれない。はたまた、自分のSNSに対する数多く‘‘いいね!‘‘かもしれないし、待ち望んだ恋人からのメッセージかもしれない。

数多くのギャンブルの様な答えが通知には含まれている。そして通知のならない時はどうだろうか。これはギャンブルの「待ち時間」ともいえる気がする。


ではSNS以外では、YouTubeはどうだろうか、ある動画を見終わると次の動画が表示される。その中から自分の目当ての動画が無いか探すだろう。
次の動画は面白いはずだ、でも「実際に動画を見ている時」よりも「次の動画を探している時」の方が気持ち良いと感じる経験があるのではないか?
TikTokでも、スライドしてるとき徐々に楽しくなってないか?お目当ての動画が見つかればより気持ち良いと感じないか?

ギャンブルと何が違うのだろうか。我々の人生は、サルの青信号と同じではないかと勘ぐってしまう。

スマートボールくらいで良いよ…

薬物の「依存症」になった患者は自力では薬物から抜け出すことが出来ない。
依存症の定義は難しいが私は自力で抜け出せないことを示すと思う。ギャンブルも依存症でなければ楽しい範囲で辞める選択もできる。甘い果物やスイーツだって欲しくなっても我慢することができる、私達はそれらの欲求から逃げだす方法を知っているはずだ。


スマートフォンだってそうだ、何時間もSNSを見て、YouTubeを見て、エロサイトに翻弄されて、でも本当に辞めたいと思えば辞められるはずだ。もっと自然を感じたいはずだ。子供の頃のように友達と遊ぶ事を望んだことだってあるさ。人よりも頭よくなりたいと後悔したのではないか?カッコよく、可愛くなりたいのではないか?さあ、スマホを捨てよう!と思う事さえあったのでは?



でも、実際そんなうまくいかない。



同僚、友達、さらには家族とも「逐一」そして「迅速」にスマホからメッセージや電話をしなければならない。


可愛く、カッコよくなっても、周りはスマホの向こうのインフルエンサーに夢中だ。

おサイフケータイをしてPaypayを入れたら牛丼を食べるためにスマホを持っていかないと。

ディズニーで遊ぶためには入場口で液晶画面に縞模様のバーコードを表示しなければならないし、都会のオシャレなイタリアンレストランではQRを読み取り、スマホから注文しなさいと言われる。

スマホが無ければ、いくら目を凝らしたって奇妙なそのQRの模様を理解することはできない。



私は怒りを感じる。文字が読めない人を無くすために日本国民は義務教育を受けた。文字が読めず困った人には同情をし、助け船をだした。しかしスマホに関しては誰か、何かを行っただろうか。
分厚いスマホの使い方の雑誌でもなく、スマホ購入者にむけたスマホ教育でもなく。無償の愛を届けただろうか。


なにもスマホを否定しているのではない。スマホに置き換えるのをやめろと言いたいだけだ。

これは私達の怠慢であり、企業や会社の怠慢である。SDGsや多様性をうったえる社会で何故既存の選択肢を減らすのか。電子マネーしか使えないなら現金で生きていた人は社会からはじかれてしまう。難しい登録が出来ないとサービスを使えないように、学力差別のようにスマホ差別になる。

それなら、国として対策すれば良い。
スマホがインフラになってしまったなら、スマホ教室は公共で行えばよいし、性能の低い最低限のスマホを条件つきで申請した人に配布すれば良い。
解決策はいくらかある。

でも、私は怒りを感じ、社会に生きる人を嫌悪するのだ。貴方が嫌いだ。



もしも、もしもだ、貴方がギャンブル、とりわけパチンコが好きな人だったとしよう。
ハンドルを回すと長い未来から目を背けることができる。漫画でも読みながらハンドルを握っていると突然パチンコ台が激熱演出を向かえる、このあと赤く光れば80%で確定演出に入る。液晶が赤くまばゆく輝き軽快なBGMがなる。このあと手に入る金額の事を思うと脳が溶けるような夢心地だ。

でも今月は5万円負けている。

だから楽しかったがパチンコから手を引こうと突然思い立ち、あなたは店をあとにする。

これ以上はまずい。
生活費5万まで犠牲にするほどじゃない。その程度の理性はアイツらと違ってあるのだと自分に言い聞かせて、夜風を切る。 

 自宅に帰り飯を食べていると机の横にはパチンコ台がある。「リング3」を食事中に打つのは良くないと分かっている。
どうしても気になるので、目の前の蒙古タンメン中本のカップ麵に集中しようとする。
でも気が紛らわず、風呂に向かう。
湯船につかると給湯器の脇に「大海物5」が埋め込まれている。
回転数的にもしかしたら当たるかもしれない。給湯器横には生活費5万円がある、もしかしたら8万になるかもしれない。
明日にはカップ麵でなく焼肉とビール掻っ込むことが出来る妄想をする。

いかんいかんと、急いで風呂を出て就寝準備をする。枕元には人気台「エヴァンゲリオン~未来への咆哮~」が財布と共に貴方を待っていた。


こんな社会は異常だと誰でもわかる。
でも今や私達の生活はこんな感じに近づいている。貴方もその実感があるだろう。

個人はスマホ依存症でなくとも、社会がスマホ依存症になっている。いくら個人が辞めたくとも「やめることは許しませんよ」と社会が警告する。
これは私達が「楽」を求めた結果でもあり、競争社会の産業廃棄物かもしれない。
だから私達の怠慢だ。深く考えずどんどんサービスを求め、使用した結果だ。いくらSNSで苦しもうと、スマホ料金に文句を言おうと本当の意味で解決することはできない。
さあ、だから共に苦しもうじゃないか。逃れられないスマホ依存の渦に飛び込もう。私達が望む輝かしい未来に向かって。



参考文献 デイヴィッド・J・リンデン 快感回路 なぜ気持ちいいのか なぜやめられないのか p181.182 


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