大人は勝手にさせられるもの
「ハピちゃんきゃわいいねえーーどしたのおお」
父親がペットを呼ぶその声に、祖父が私を呼ぶ際の古めかしい光景が重なった。食卓に並んだ食べかけのぶり大根に発泡酒。私が小学生の頃、祖父はいつも家族から反感をかっていた。夕食時、いつも酒臭くなること、そして声が無駄にでかくなること。父親の「ハピちゃん」と発した際の通称より大きく、また無駄にビブラートする部屋の空気に父親と祖父の血縁が垣間見えた。
年を取ったのだ。私も父親も。
時間の流れとは残酷であるが、それに抗う人の知恵というものは慈悲深く感じられる。ほんの50年前の60代であればいかにもおじいちゃんと感じたかもしれない。だが最近は白髪も自宅で綺麗に黒染めされるし、洋服もユニクロなどの存在により世代間ギャップが感じられにくい。年相応という存在を無くしやすくなっている。現在の若者は女性だけでなく男性も化粧を行うようになってきている。今の20代30代の若者が60代になったころには50代いや、40代から60代の壁はふやけて相手の年齢をあてることは不可能かもしれない。
ともあれ、時間の流れにはやはり抗えない。ついに父親も老人といえる年齢に片足を突っ込んできているのだ。そして親が年を取ったということは私も大人として振る舞う年齢に達してしまった、そういうことだ。幼稚園は言い過ぎだとしても私の中身は高校生で止まっているのに時間は大人として動けと命じてくるのだ。
大人になる。小学生からずっと考えてきたことだ。小学生の頃は大人がなにか分からなかった。だから働くことが大人と考えた。そして将来の夢としてなりたい職業、やりたい事をかんがえ(時には道徳の時間に発表されられ)た。中学生になり、夢は夢なのだと学んだ。サッカー選手はサッカーが上手いだけでは生きていけず、町のケーキ屋さんは毎日新作を作るわけではない。夢と大人は別なのだ。高校・大学と働くことが理解できるようになり、これが大人なのだと分かった。働き、家族を養い、子供を育て、、、、
ちなみに関係のない話ではあるが、私の友人S君は小学校の授業参観の際、皆がケーキ屋さんやら科学者やら発表する中で「私の将来の夢はサラリーマンになって子供と暮らすことです」と珍回答を狙い笑いをとった。だが後日、ママ友の間でSの家庭環境を心配する声や夢が無いのはTVの影響だとかSは両親をよく見た立派な子などなど。本人の思惑とは別に大議論を巻き起こすこととなる。この議論は二分の一成人式にちなみ、S1/2事件として3年近く引きずることとなった。うっかりな一言は非常に恐ろしいものだ。(子供同士としては面白かったが)
さて大人になったぞ。なんてこった大人の大半は子供のようではないか。
何をしてるかわからす働き、なんだかわからんが怒られるし、文句を言い、八つ当たりし、時にはサボるし、好き勝手に遊んだりもする。周りの大人たちは大人っぽく振る舞うだけで中身は変わってないのだ。なんだこれは、なんなのだ。全然立派じゃないぞ、初めて社会人になった私は非常に困惑した。大人なのか子供なのかわからない人が入り混じり、おのおの好き勝手動いているのか動かされているのか。自由なのか不自由なのか。みんな何がしたいのか。
「大人になれば大人がわかるわけではなかった。」
とにかく、わけわからず混乱と混沌の中で過ごす中で、ただ一つ、変わってしまった残酷な事実があった。私は責任という不自由を守らなければならないのだ。結婚をすれば家族のこと、会社にいれば店やら顧客やら会社のこと、そして両親がいるなら老後のこと。
現時点で結婚しない私は子供のことなどは考えないが、ふとした日常動作の中で両親の老いを感じると今後の身の振り方を考えないといけない。私はついに大人としての振る舞い方を学ばないといけないのだ。
疲れた。まとまらない思考に、このゴチャゴチャ感が大人なんだよと言い聞かせ今日も床につく。朝起きたら立派な大人に変身できていたら嬉しいものだ。