短編小説『世界を燃やしてほしかった』
今日買うもの、にんじん、じゃがいも、たまねぎ、牛肉、カレーのルー。
カレーのルーはセブンプレミアムの安いやつでいいよってドアを開ける瞬間に言われたのを思い出しながら自転車のペダルを踏む。
自転車の悲鳴ががちゃがちゃきぃきぃと聞こえる
あー油を注さないと。油って家にあったっけなと思い出そうとする。
あれだけ毎日見ている玄関なのに、油があるかどうかすらはっきり思い出すことができない。
行きつけのスーパーは最近セブンイレブン系列に取り込まれてしまった。
結果、店の中には価格の少し安いセブンプレミアムの商品が溢れている。
「たまには高いルーを買おうよ」
私は玄関からそう言ってみたけどもあの人はカレーなんて、何のルーを使っても同じだからと言って取り合ってくれない。
ルーを変えたらもっと美味しくなるのに。
あの人はそういうところは無頓着なのだ。
そこは未だに馬が合わない部分だ。
遠くの空に飛行機がしっぽのような飛行機雲を連れて飛んでいる。
いい天気だからどこかに出かけてみたい気もする。
でも、平日に忙殺されている私は出かけたくない。
こんな風にスーパーに行くのも本当は嫌だった。
でも、あの人が「今日はカレーを食べたい」とわがままを言うから。
がちゃがちゃきぃきぃ。
クレ556を勝手に買って帰ろうかな。
どうせ、この自転車、私しか乗らないし。
「俺、もうあきらめるから」
晩ご飯を食べてるときにあの人はそう言った。
その日の献立は麻婆豆腐。山椒をまぶしすぎて私には辛すぎた。
いいの?ずっと頑張ってきたのに?そんなつまらないことは言わなかった。
ここ一年くらいはもう終わりに向けた予告編だったことは私にもわかっていた。
だから「お疲れ様」とだけ言った。
あの人は「うん」とうなずいて、麻婆豆腐を取りご飯にかけた。
そっか、あきらめてしまったのか。
その日、洗い物をしながらその言葉を思い返していた。
洗剤のキュキュットが無くなりかけていることに気がついた。
少なくなった洗剤をスポンジに垂らす。
詰め替え用を買わなきゃいけない。
たまねぎが今日は安かった。
牛肉は2割引きのがあった。
にんじんはそこそこ大きいのがあった。
じゃがいもも今日は一袋あたりに入っている量が多い。
かごの中が重たくなっていく。
後はカレーのルー。
セブンプレミアムの安いやつ。
ふとバーモントカレーと熟カレーが目に入る。バーモントカレー久しぶりに食べてみたいと思った。子供時代はよく食べたものだ。はちみつの味なんてわからなかったけども、やけに美味しそうに思えた。
でも今日はやけに熟カレーの箱が目に入る。ルーが二段構造になっているらしい。
値段はセブンプレミアムのカレーに比べてと100円近く違う。なるほど、100円多く出せばルーが二段になるのか。
「旦那さんって何されてる方なんですか?」
家計を支えるために働き始めた事務の仕事も3年が経っていた。気がつけば中途の新人さんから、中途さんになり、そして先輩になっていた。
昼休み、冷凍食品が詰まった弁当を食べながら、初めてできた後輩は私に聞く。
「今は、何もしてないよ」
今日の弁当の中身を多分今頃あの人も食べている。ニチレイのハンバーグ。昨日の晩ご飯の残りの青椒肉絲。白いご飯。
「え、ヒモなんですか?旦那さんって」
口の端にご飯粒をつけた後輩が目を丸くして言う。
「違うよ、ちょっと前までは頑張ってたんだけど、今はやめた直後だから」
「やめたんですね。え、何されてたんですか」
「あー、世界征服」
「え?」
「あ、嘘。普通のサラリーマン」
「先輩って冗談言うんですね。もっと怖い人だと思ってましたよ」
冗談じゃ無いって言ったらどうなるだろう。
「お帰りなさい」
家に帰った私をあの人は出迎える。
そして何の意味もなく「ごめんね」と付け足す。
世界征服することを諦めた彼はずっとこんな感じで自信も元気もなくしてしまった。 あの人は本当に世界征服しようとしてたのだ。
悪の結社のボスだったのだ。
でも、正義のヒーローは強かった。
度重なる戦闘の末に彼と私は命からがら逃げ出した。
ベッドタウンの隅っこにたどり着いた私たちはそれでも世界征服をするために頑張った。 でも、生活は難しい。
日々の生活に追われるうちに世界征服のことを口にするよりも、職場の不満や、明日の天気、スーパーの特売、公共料金の未払いのことばかり口にするようになった。
「あのね、今日、セブンプレミアムのカレーのルーじゃなくて、熟カレーのルーにしたから」
「あ、そうなんだ」
「ごめんね」
「別に。いいよ」
俺も手伝う。と言って袋からタマネギを取り出す。
狭いキッチンに私とあの人が並ぶ。
「なんで、熟カレーにしたの?」
「二段なんだって。ルーが」
「へえ」
「100円高い分、二段になるんだって」
「一段分美味しいのかな」
「一段分美味しいんだよ多分」
準備を続ける。ピーラーで皮をむく。一口サイズに切る。サラダ油をひく。炒める。
「あのさ」私は口を開く。
「あのさ、世界征服。やりたかったら続けてもいいからね」
換気扇が回っている。煙が吸い込まれていく。
あの人が肉と野菜を炒める。匂いが広がる。狭いキッチンがより熱くなる。
「なんか、最近、暗いし。それだったら無理に諦めることないからね」
「あー。うん。ありがとう。・・・でも、うーん・・・。今はもう、だめだよ」
「そっか」
「うん。世界征服なんて無理だよ」
うん。知っていた。でも、続けるって言ってほしかった。
無理にでも続けるって。
こんな世界すべて燃やしてやるって。
気に入らない奴みんな殺したり奴隷してやるって。
巨大ロボで街を壊してやるって。
戦闘員たちが溢れるアジトをつくってやるって。
世界をあなたとわたしのものにしてやるって。
言ってほしかった。
世界征服をやめるなんて言ってほしくなかった。
「確かに美味しい」
白い蛍光灯の下で、私とあの人でカレーを食べる。
すっかり私たちはもうこんな生活が板についてしまった。
「でも二段分のおいしさってわからないね」
そうだね。と返事はせずに心の中で思う。
これからも生活は続いていく。カレーを作ったり、洗剤を補充したり、公共料金を払ったり、仕事をしたり、家に帰ったり、寝たり、起きたり。
そのうち世界征服のことなんていつの日か忘れてしまうんだろう。
これから続く生活のことを思って絶望したけども、それを忘れるようにカレーを口に運んだ。
確かに二段分のおいしさはわからなかった。
これならバーモントカレーにでもしておけばよかったかなとも思った。
こんな風に小さな後悔が満ちた現実をこれから突き進んでいく。
私もあの人も。