縮小の地方。「自由」に変わることでしか解決しない
つい先ほど、こんな記事を見かけた。
併せて「農業新聞」の記事も読む。
https://www.agrinews.co.jp/p50369.html
が、読後に違和感を生じて仕方がない。
どこかズレていると、率直に僕は思った。
書いてある内容の大部分は僕も賛同すべきことなのではあるが、農に寄り添うことが地方を活性化することのすべてではない。
地方が変わらないのは農業を「神聖化」し過ぎているから。
農村に存在する「勤労」の観念にとらわれ過ぎてしまっているから。
「スマート」とか「クール」の入り込む余地を嫌うから。
それらを解決しないかぎり、永遠に地方は都市部の下請けになる。
そして滅ぶ。
このnoteにも地方に関する違和感を書き殴っているが、いつも「やっぱりどう考えても滅ぶよね」、という答えに帰結する。
少子高齢化社会で地方の何が失われていくのか。
僕は「自由」が失われていくと考える。
僕らは言葉を使ってモノゴトを考える。
今日は何を食べようか。
あの人が好きな理由、嫌いな理由。
これからの自分がやりたいこと、など…。
自分の中にあるインスピレーションがやがて言葉となり、その言葉を組み立ててなにかを発想する。
そして、発想の材料となるのは経験や知識など。
そんな知識や経験は実は、周囲のひとからの影響が大きいだろう。
周りの人間がどんな話をし、どんな思考をして、何に興味を持っているのか。
子供はいちばん近くにいる人間をみて学び、それが自分の性格や価値観の創出に繋がる。
そんなときに古い価値観や、数年前の情報にとらわれて、経験や知識のアップデートを怠る人が増えたらどうなるだろう。
新しい出来事やニュースに批判的で、そもそもそんな情報をキャッチできる素養もなくなる。
結果として、古典的な人が多くいるコミュニティは成長が鈍化するどころか退化する。
結果的に「変わること」を恐れ、変革が進まない。
どこかに変化が起ころうとすれば、それを抑えることだけに必死になる。
そして「自由」が失われていく。
視点を変えて考えてみよう。
いま、あらゆる情報や技術は「自由」という基盤を持ったプラットホームが握っている。
自由な検索。
自由なネットでのショッピング体験。
自由なソーシャルコミュニティ。
そのプラットホームをつくる場でさえ「自由」な意見が交わされ、むしろ「自由」過ぎる意見がなければ「自由」を基にしたサービスが生まれるはずもない。
または「自由」が抑制されれば、「自由」な人がその場にいる必要もない。
「自由」という素地がなければ、なにも生まれるものはないのだ。
そして「自由」が許容される場には、自らの「自由」の解放を求める人が集まる。
例え直接的な利益を生まなくとも、その発想が何かを生み出す大きな呼び水となることもある。
いまの地方、ひいては日本全体が、そんな「自由」に非寛容であると思う。
多少なりとも「自由」の利く国や企業に、日に日に遅れをとっている。
それだけではない。
現在の新型肺炎の対策にも他のアジア諸外国に比べ、手遅れとも言えるほどの後塵を拝している。
「自由」な意見が活かされず、「自由」に検査も受けられず、ついには「自由」な行動すら制限されてしまった。
で、僕は何が言いたいのか。
いま地方に暮らす「若者」と呼ばれる若年層が、次々に都市部へ流出してしまう根本原因をこの著者は理解しているのだろうか、ということ。
出ていった若者が地元に帰らないことほど悲劇的なことはないと僕は思うが、なぜ子を送り出した親はそれを許容するのだろうか。
むしろ、なぜ都市部で働くことがそれほどまでに誇らしいこととなるのか。
それって都市部に「自由」があるから。
「自由」に学べて、「自由」に職を探し、「自由」なライフスタイルで居住ができる。
そして「自由」に買い物ができ、多くの「自由」なひとに出会うことができるから。
さらにいえば、自らの発想する「自由」がカネに変化する可能性も都市部の方が断然高い。
よって、自由な行動に帰結する賃金も地方に比べれば圧倒的に高い。
若者が地方を脱出する理由は「不便」だからじゃない。
「不自由」だから。
ハッキリ言えば、地方を過疎化させたのは、脈々と息子や娘を都市部に送り出してきた親世代の責任だろう。
それを直視せず、都市部の若者を、果ては海外の実習生という名の「労奴(農奴ともよべる)」を受け入れようとする体たらくは無責任すぎやしないか。
さらにここにきて、コロナで休業中の他産業の外国人を働かせよう、
あるいは農業高校生に人手不足の農業を手伝わせようなどとの意見があるらしいが、そこに被労働者や学生の「自由」はないのか。
僕が触れたニュースを見る限り、彼らからの意見はひとつもなかった。
あったのは、農業者からの窮状だけだ。
こんな短絡的な発想が蔓延るからこそ、地方から若者が逃げ出すのではないだろうか。
せめていま、地方に居住する若者にどう、我がふるさとから「脱出」されないか、知恵を巡らせるべき。
それが地方の雇用を守ること、地方の自治やインフラを守ること、ひいては地方の存立を維持することに繋がる。
自分の言葉を「操作」し、ひとりひとりが考え、気軽に発言できる。
そんな小学校の教室に貼り出されるクラス目標みたいなことさえ、いまの社会では憚られる。
むしろそれさえ可能であれば、どんな企業も団体も、目覚ましく成長すると思う…。
いまや都市部への消費に頼っているにも関わらず「地産池消」を掲げ、都市部からのふるさと納税を当てにし、コロナショックで地方も打撃を受けるのは確実だ。
ところが。
「農サイド」というキーワードを見るにつけ思う違和感は、農業を地方産業の柱にしているにも関わらず、地方と都市との分断に結びつける倒錯にある。
地方から自らの子供を送り出し、「都市が過密で地方は過疎」と嘆くとは…。
またはどんなに「消費者教育」を施しようが、「科目」や「授業」になった瞬間に農業という労働の持つ「自由」が損なわれ、「教育方針」によるお堅い農業観が先行するだけだ。
いくら植物工場が建設されたとしても、身近に土すらない都市部に農業など理解できまい。
だとするなら、いま農業を営んでいる者の子供を如何に自由に「自由な農業に関わらせる」か。
そこがまずは先だろう。
なぜなら、すぐそばに「農業」という場があるのだから…。
最後に。
僕は「自由」な農業を模索する。
野菜をつくることだけが農業じゃない。
植物を育てることだけが農業でもない。
もはや「農業」という枠にばかり縛られていると、滅びゆく地方の道連れになる。
まずは凝り固まった価値観から少しずつでも離れなければ。
それこそ、「自由」な発想が必要だ。
長らく放置されている低い生産性に機械が導入されたら?
多くの人が「日本は農地が細かいからこそ機械は入らない」というが、機械の単位が人間同様になる、つまりSFのような人型の機械を農業団体が導入したら?
そこまでいかなくとも、最新技術は着実に農業にまでも及んでいる。
低い生産性に有難がっているだけでは、職を失くす。
コロナショックの影響で人件費の重さや、疾病で突如働けなくなる「人間」という労働力の不便さを資本主義が看過しないことを僕は恐れる。
きっとこれまで以上に、現場に機械やAIが導入されるだろう。
労働によって対価を得る以上、消費者に向き合い、都市部に向き合い、それこそ「自由な労働」を僕ら生身の人間が勝ち取るほかはない。
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