10. 東日本大震災と胆振東部地震を経験した僕が思うこと~3.11から10年①
2011.3.11 あなたは、どこにいて、なにを見ていましたか
僕はといえば、震度6強の揺れのなか、海のない、福島第一原発から直線距離で140kmの街にいた。津波は襲ってこなかったしケガもしなかった。住まいは無事だった。けれど停電になり、ガス・水道が止まった。店から食料が消え、食べ物は手に入らなくなった。
被災3県の方々の心に今も深く残る壮絶な痛みに思いを寄せる時、僕が直面したあの日々は「取るに足らない」と断言できる。それでも、あの日大阪や福岡にいた人が過ごしていただろう「普通の日常」からは程遠かったはずだった。だけど結局、僕は僕自身の経験をどんな名前で呼ぶべきか、自分のなかでどう位置付けたらいいか分からないで日々を生きた。そして五体満足のまま結局は何とかなったという現実は、恐怖からしばらく車で眠っていたり、友人宅に風呂を借りに行ったりしていた非日常を次第に薄めていった。
3.11から7年後、僕は札幌市に住んでいた。北海道の短い夏が終わった、2018.9.6の深夜。突き上げる揺れを感じて飛び起きた。胆振東部地震だった。
3.11を経験した僕は、非常食やモバイルバッテリーの用意など、万端ではなかったけれど災害時の備えをしていた。だけど、札幌の人たちは違った。東日本大震災の影響は小さかったし、もともと北海道は地震が少ない地域だ。日が昇って時間が経つにつれ、街はパニックになっていった。行政も北電も全道ブラックアウトという事態を想定していなかったように、道民の多くが自分たちがの街が「被災地」になるなんて考えていなかった故の混乱だった。停電が自分の生活の多くを停めてしまうことに、停電して初めて気づくといった風だった。
9.6の僕は、災害伝言ダイヤルを活用して部下同僚に会社の指示を共有してもらったり、近くに住む妹と合流して両親の安否確認の手間を減らしたり、食料の共有をしたりしていた。
これらは全て、3.11以後の日々で有効だと感じたことや当時の上司が取っていた行動、反省から得た教訓の実践だった。非常食や携帯ラジオの用意、車のガソリンを半分以下にしないという備えもしかり。
これらは僕が「被災」を経験したからとれた行動じゃないのか。
札幌の人々との意識の差を目の当たりにして、僕は7年越しで、自分が広義の被災者なのだと気づいた。たしかに災害を経験した人間なんだとやっと思えた瞬間だった。
僕が7年もの間、自分の経験を被災だと思わなかった・思えなかった理由は簡単だ。僕よりはるかに辛い思いをされている方々こそが被災者であって、この程度で被災者と名乗るなんておごがましいと無意識に感じていたからだ。そしてそれは、僕自身を含めた日本国民全員の認識であるように思う。
ここまで書いてきたけど、僕は『僕も被災者だったんだ!』と叫びたくてnoteを綴っているわけじゃない。甚大な被害を受けた被災地の周辺にいた、僕のような経験をした人々を『近接被災者』と呼ぶそうだけど、この近接被災者の経験も風化させずに継承されるべきじゃないかと考えてこのnoteを綴ってる。
災害がもたらす被災は、津波や土砂崩れといった直接被害だけではない。物流や交通、インフラの停止など僕ら近接被災者が経験した事象の方が、広範囲に及ぶという意味では重要な災害となり得る場合も想定される。その際、3.11で僕らが取った行動や反省が教訓化できていれば、人々の指針になるんじゃないだろうか。
3.11で帰宅困難者が10万人を越えた首都圏では、会社や自治体が帰宅困難者向けに災害時マニュアルを提示している。だけど、地方都市はどうだろう?
例えば、僕の住む北海道旭川市。内陸だから津波はない。大きな地震は少ないけれど、川が多いので氾濫の危険性はある。活火山の噴火もリスクがある。また、道央圏で大地震が発生してアクセスが長期間途絶すると物流が滞る。なにより、市役所庁舎が最新の耐震基準を満たしておらず震度5で倒壊するおんぼろだ。災害対策本部は速やかに設置されるんだろうか…人口の1/3を占める高齢者の避難は…
僕の街だけでもこれだけのケースが考えられる、これらに完璧に応えられるマニュアルは難しいかもしれないけど、ある程度ケースごとの行動指針を設けておくべきだし、その際には3.11で近接被災者のとった数多くの有効な行動や教訓が役立つはずだ。
そのためには、僕らひとりひとりが「自分も被災者だ」と意識して、自覚的かつ積極的に自身の経験を発信していくことが必要だろう。どんな些細な気付きや経験も、多くの人が発信し続けることでいつしか社会に浸透し、ひとびとの防災意識を支えることに繋がるはずだ。
3.11は、東北の人たちだけのものではない。日本国民全員が背負って考えて、痛みを共有し、そして共存していかなければならない。自分の手の届く範囲からでも、被災経験や気付き、様々な教訓を次世代に継承していくことは、還ることのできない多くの命に対する遺された僕らの義務だと思う。