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12. 映画『Fukushima50』レビュー。日本が好む物語に惑わされるな~3.11から10年③

僕等が『筆舌に尽くしがたい』としか形容できないような場面に、人生で何回も遭遇することはないと思う。けれど、3.11のあの日、この世に生があった人間は等しく、そうとしか形容できない光景を確かに見た。多くの映像は津波の恐怖を編集なしで僕たちに突き付けてきた。目をそらす権利は僕等にはないように思われた。それは、この国で起きている現実だったからだ。

僕は3.11その日、テレビを見ることができなかった。停電していたからだ。数日間電気のない生活が続いて、やっと復旧して真っ先につけたテレビが放送していたのは、名取川を駆け上がる津波の光景だった。それは、ラジオからの情報で”僕が想像していたこと”をはるかに超えた事態で、日本は終わったのだと真剣に感じて、電気が戻ったことなんかちっとも喜べなかった。

絶望感と疲労でぼんやりとテレビ画面を眺めていたら、福島第一原発が爆発した映像が流れた。アナウンサーが「なんらかの爆発的事象」という意味不明の言葉を使ってたけれど、誰がどうみたってそれは爆発だった。

事故から時が経ち、東電の社内体質が招いた人災だということが明らかになるにつれ、吉田昌郎(よしだまさお)福島第一原発所長の存在がクローズアップされていった。語られる苦闘の断片からは、放射能の分厚い壁や、いかに難しい対応を迫られていたかを知ることができる。一昔前に流行った『事件は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ』を地で行くような事件の様相は、有事のリスクマネジメントに関して多くの示唆を与えてくれる。

この書籍を原作にした映画が『Fukushima50』だ。僕ははじめ、見る気はなかった。日本人が大好きな「お涙頂戴物語」として脚本されているだろうことを想像したからだ。渡辺謙と佐藤浩市だぞ、と。福島の苦悩を情緒的に片づけるべきじゃないとか何とか立派ぶった事も考えていた気がする。

コロナ禍がはじまって映画館に行けなくなったこともあり、見ようと決心したのは2021年に年が変わってからだ。Amazonのprimevideoで500円でレンタルできたから、ということと10年目だから、という動機だった。

とりあえず日本人は全員見ておくべき映画だ、と言っておきたい。

まずは、どういった色の脚本であれ、原発事故を正面から扱った映画を全国で見られる作品として作り上げた制作陣の心意気は評価したいと思う。フクシマ、原発、そういった部分で鑑賞をためらう人々に対し、渡辺謙、佐藤浩市という日本を代表する名優を配することで、鑑賞のハードルをさげたこともよく考えられている。【まずは、映画を見て欲しい】そういう制作陣の強い思いを僕たちは理解すべきだろう。

その上で、僕個人としては、本来は硬質な社会派映画にするべき素材だし、それが叶う陣容だっただけに残念に思う気持ちが強い。過酷な現実に立ち向かったことを、日本人が好む「お涙頂戴物語」にしてしまうことの弊害は、一部を切り取ることで過去を美化し、真に省み考える機会を人々から奪うことだ。

近年制作される太平洋戦争を扱った映画は、特攻を題材にしているものばかりだ。特攻の悲劇的な末路は、二度と戦争を繰り返してはいけないという警鐘の代表例だが、これらの映画には自分たちがなぜ加害国になったのか、その根本を考えさせる場面は少ない。強権的な軍部を憎み、理不尽な時代に散っていった彼らの若い命に泣くためだけのこういった映画の量産は、結果的に先の戦争をこういう角度からしか理解しない層を生み出す。現実に、日本において戦争の悲惨さを代表するのは、空襲・原爆・沖縄の「被害」であって、中国・満州・東南アジアでの「加害」の実態を知らない人が増えている。

同じ構造が、この映画と福島第一原発事故にもあてはまる。吉田所長をはじめとする、イチエフの現場に関わったすべての人々の奮闘は正しく理解され、称えられるべきだ。けれど、首相を始めとする官邸や東電上層部が無能で(実際そういう側面があったにせよ)現場の人々が彼らに振り回されながらも必死に戦ったという構図だけで原発事故を描くことは、事故の本質を理解することにはならない。

この映画が描くべきだったのは、事故対処と事故原因の両方だ。そして、観た人に原発事故の構造を改めて問うことだった。それができる予算と陣容と可能性がある映画だったし、10年目に日本がもっとも立ち向かうべきテーマだった。これが僕がこの映画を残念だと感じる部分である。

僕はこの映画を多くの人が鑑賞し、フクシマを風化させない一助になってほしいと願う一方で、この映画が持つパワーによって、原発事故はこうだったのだと納得して、それ以上知ることをやめてしまうことが怖いとも思っている。「あの人達の頑張りがあって、今私たちは穏やかに暮らせているのね、ああよかったよかった」と言って、終わらせてほしくないのだ。

「どうしてメルトダウンまで事態は進行したのか」「なぜフクシマに人は住めなくなったのか」大切なのは、この映画の先にある現実のフクシマであって、そうなった原因を日本人全員が考えつづけて、省みて、後世に事実をありのまま伝えて、繰り返させないようにすることだと強く言いたい。


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