11. 2011年,節電の夏からのメッセージ。いま僕らが学ぶべきは~3.11から10年②
2011年の夏が猛暑だったか冷夏だったか、僕は覚えていない。いまでも鮮明に覚えているあの夏の風景は、止まったエスカレーターを昇ったり、ビルが18時で閉まったりしていたこと。間引かれた蛍光灯、薄暗い夜の街並み。毎日のように発表される節電目標の達成率と「明日の計画停電は回避されました」というアナウンス。
これらは、福島第一原発事故に起因する東電管内の電力不足によって、2011年の夏、東日本の多くの人が経験した「節電」がもたらした景色だ。
原発は悲劇的な惨状だった。何をどうしたって、今すぐに震災前と同じ量の電気を生み出すのは無理だと誰もが分かっていた。節電しなければ強制的な計画停電が待っている。経済や生活を考えれば、それは避けなければいけない——。答えはひとつ、皆で協力して節電すること。
エアコンの設定温度を例年より高くした東日本では、電車内やオフィスは蒸し暑くなった。夜に出歩く人も少なくなった。フレックスタイムやノー残業デー、在宅勤務を推進する大手企業もあった。時間を繰り上げてビルを閉めると言われたら、テナントはわかりましたといって営業時間を短縮したし、エスカレーターが止まっていても文句も言わず昇降した。
あの夏、僕らはこれらのことを粛々と推進し、節電目標を達成する日々を過ごした。そうして一度も計画停電することなく2011年の9月がやってきて節電期間は一区切りを迎えた。
どうして抗議することなく、こういった取り組みができたのか。答えはシンプルだ。
『そうしなければいけないと多くの人が共通理解をしていたから』
津波は多くの人の命を奪った。その津波が原発を襲い、福島の土地を放射能が覆った。災害がもたらした圧倒的なまでの喪失感や悲しみが、あの年東日本の人々を連帯させていった。それはある種の義務だったし、喪われた尊いものへの一種の弔いでもあったように思う。
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3.11から10年後。僕らは今、コロナ禍に直面している。人間の力が及ばないものが人の命を奪っていく、という構図は3.11と大差がない。そして、乗り越えるために人々の連帯や共通理解が必要だということも。でも、3.11のころに僕らが感じていた”まとまり”みたいなものは、このコロナ禍では薄いような気がしている。なぜなんだろう。
自分は若いから大丈夫、自分はちゃんとしている、自分はリスクを回避している——。そういう声ばかり聞こえるのが原因じゃないだろうか。自分に累が及ぶ範囲の環境を整えることには必死だけれど、その外縁はどうでもよい。『自分』で完結して、同じ考えを広く他者に求めない社会。自己責任、という言葉が独り歩きしている社会。
どうしてそんな社会になったのか要因をあげればきりがないし、社会学者じゃないから正確な分析もできない。だけどひとつ確実にいえるのは、SNSやスマホの普及が、情報の正確性・公共性よりも、自分にとって都合の良い情報だけで状況を判断してよい仕組みを社会全体に許したことだと思っている。
社会の構成員として絶対に必要となる情報や判断基準を、共有して行動できない理由もここにある。だから、コロナ禍では共助の考えは薄まったままなんだろう。
誰かの声掛けが、高台に逃れることを決断させ、多くの人を津波から救った事実。誰かのためらいが、津波から逃げる幾人かの人の足を止めてしまった現実。行政の油断が、避難の判断を遅らせた結果。僕らは、3.11に起きたこれらのことをしっかりと受け止めて、共助への共通理解なしに本当の意味で災害は乗り越えられないということを、改めて学ぶ10年目にしなければいけないと思う。