デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義その歴史的展開と現在』
デヴィッド・ハーヴェイ『新自由主義その歴史的展開と現在』は1947年のモンペルラン協会創立以来の新自由主義の浸透について語るものである。リーマンショック以前に書かれたものであるが、新自由主義を批判的に語るときにしばしば引用されるので一読推奨である。
途上国においては軍事力であったり経済的な暴力で新自由主義を受け入れさせたのだが、そもそも英米で浸透していた理由のひとつは、リベラリズムとかアイデンティティポリティクスといったものと相性が良かったことである。ナンシー・フレイザーは「フェミニズムは新自由主義の侍女になってしまった」と嘆いてみせたが、最初からそうなる運命だったのである。
個人の自由という価値観と社会的公正という価値観とは、必ずしも両立しない。社会的公正の追求は社会的連帯を前提とする。そしてそれは、何らかのより全般的闘争、たとえば社会的平等や環境的公正を求める闘争のためには、個人の欲求やニーズや願望を二の次とする覚悟を前提とする。(中略)たとえば、運動の政治的担い手たちは、個人的自由を希求し、特定のアイデンティティの完全な承認とその表明を求めているが、以前からよく知られているように、そうした願望を妨げることなく、社会的公正を達成するのに政治行動上必要な集団的規律を確立することは、アメリカ左翼の内部では非常に難しいことであった。新自由主義そのものはこうした分化を作り出しはしなかったが、それをたやすく利用することができたし、場合によっては助長することさえできた。
68年の運動に携わったほとんどすべての者にとって、社会の隅々に侵入してくる国家は敵であり、変革すべき対象であった。そして新自由主義者もその点には容易に同意できたろう。しかし、資本主義企業や、ビジネス界、市場システムもまた、是正されるべき主要敵とみなされていたし、場合によっては革命的変革の対象でさえあった。そこで、個人的自由の理想を乗っ取り、それを国家の介入主義や規制政策への対立物に転じることで、資本家階級は自分たちの地位を守り、ひいてはそれを回復することさえできると考えた。
おそらく左派は1970年代当時にこういったことを意識していたわけではあるまい。一方で資本家階級は1960年代の左翼の運動から、こうした転換が必要であることを、少なくとも無意識には感じていたものと思われる。
自由とはなにか、公正とはなにか、そういったことを明確に意識しないと新自由主義を批判することすらできない。そして批判することすら延命に手を貸しているという絶望に至り処決したのが『資本主義リアリズム』の著者マーク・フィッシャーであった。個人的には、まだフィッシャーほど絶望はしていないが、いつかはそうなるかもしれない。そしてどうせなら正しく絶望したいと願っている。
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