”Why I am not a Buddhist"読書会:有為と無為とEnactivism
昨日は土曜日だったので例によって仏教のアレさんの読書会を聴講した。
”Why I am not a Buddhist"読書会ももう4回目で第2章の後半である。だいぶ盛り上がってきたぞ。
進化心理学を援用したロバート・ライト『なぜ今、仏教なのか』の批判をしつつ、エヴァン・トンプソンが自身の立ち位置を表明していくパートだ。
トンプソンはアビダルマをひいて、身体性認知科学を紹介する。仏教徒ではないといいつつ、自分めっちゃ仏教くわしいやんとつっこむところだ。認識とは外界と感覚器官や身体との相互作用によって生じる。自分の脳の中あるものではない。そして認識はつねに概念というラベル付けに依存する。悟りであれなんであれ、そこから自由に離れないのだ。
ライトは、遺伝子だったり自然選択だったり、概念とか認識ではないような実体的な何かを置いて説明するので、そこがトンプソンとしては気に食わないのであろう。そもそも仏教は価値があるかどうかは科学的かどうかだけで決まるわけでもない。
つまり仏教と科学の相性の良さを指摘するとき(それじたいは間違いではないにしても)、科学の自明性を疑っていないように思われるのだ。科学すらも疑わしいものとしてみる仏教ならではのラディカルな視点がないので、仏教の面白いところをごっそり捨ててしまっていてもったいなく感じるのである。
アメリカで仏教が普及するためには、自助努力的、自己啓発的な側面を戦略的に打ち出していく必要があったし、トンプソン自身がその片棒を担いでしまったこともあったという。
マインドフルネス瞑想で仕事も人間関係もうまくいく!というような資本主義に適合(迎合?)した形での仏教も悪くはないし、それで人生が豊かになるのならおおいに活用すればいいと私は思うけどね。でもそれだけではつまんないなあとも思うようになったから、こうして読書会を毎週聴講しているというわけである。
あと有為と無為のパラドックスの説明はありがたかった。条件付けられていない(無為、unconditioned)ことがありうるなら、原因も結果もないのではないかという懐疑は、少し考えればわかりそうだが、説明されなければわからなかった。いやまだわかってないかも。日本語でもわかっていないことを英語で理解するのは大変困難である。
ところで今週は”Why I am not a Buddhist"に関連して大変おもしろいnote記事が2つあった。
まずニー仏こと魚川さんの記事。トンプソンがライトを批判するときにベースにする神経現象学のあやうさについて触れておられる。
これに応える形で下西風澄さんが身体性認知科学、Enactivism、神経現象学の関係性を説明してくださっている。これは説明してもらわないとわからんわ。
自分なりに理解したところによると、主観と行為の相互作用という観点を保持したまま、fMRIなどの神経科学の最新技法を取り入れようというのが精神現象学であり、身体性認知科学の最新バージョンという感じである。
上掲の2つの記事は有料だが、下記の下西さんの論文は無料で読める。私の理解が間違っている可能性もあるので、関心のある向きはぜひ読んでほしい。
キーワードだけ覚えて知った気になっていた現象学も、近いうちに学ぶ必要があるなあと思う今日このごろなのであった。