生きてるだけでアート
YouTubeを始めとした、
各SNSで少し話したり、
タグ付けしてるのだけど、
私は座右の銘として
『生きてるだけでアート』
という言葉を掲げている。
この言葉は私自身による造語なのだが、
なかなか皆さんに
この言葉に込めた私の思いや、
考えをお伝えしていないことが多く、
私の活動や見せ方が分かりにくいのではないか
と、遅ればせながら感じている。
今日はいい機会なので、
皆さんにお話しできればと思い
筆を取るに至ったのである。
ぜひ最後までご覧いただけると嬉しいです。
話が右往左往寄り道してしまうのが
私の悪い癖なのだが、
今回『生きてるだけでアート』という
言葉を語る上で必要だと感じるので、
寄り道をさせていただく。
高3の夏休み前、日本史の授業を受けながら
元より物思いに耽りがちな私は
あることに疑問を抱いた。
「歴史はどうして民の生活は残らないのか」?
もっと細かく言えば、
ここに書かれている以上に
多くの命が存在していたはずなのに、
私たちが知るのは極々一部なのは
どうしてなのか?という疑問である。
そのことを深く研究しよう…
とまでは考えなかったけれど、
(今思えば学んでもよかったと思うが、
当時の私にその疑問をどう解消したらいいか
まったく浮かばなかった)
その時私は、私がどう生きたかも、
今どう感じているのかも、
100年後には無かったことになるのか…
と、生きる意味の無さを感じてしまった。
元々、死ぬことが怖いと
幼少期から思っていて、
後悔のないよう生きたいと意識してきたが、
必死に生きても有名にならねば
生きた意味はないかもしれないだなんて、
思ってもみなかった。
そうして私が、
歴史を学ぶ意味はあるのか…
と勉強に身が入らなくなったことは
ここでは一旦置いておくが、
ショックを受けて書いた詞がある。
のちに阿久悠作詞賞の佳作に選ばれる
『歴史に載らないヒーロー』である。
この詞の中で私は、
「教科書に載りたいわけじゃない、
語り継がれたいわけじゃない、
ただ、生きているその意味を、
生きてきたその証を残したい。」
そう綴っている。
その時思ったことをそのまま書いた
素直な詞ではあったが、
私がどうありたいのかが
整理されたような気がした。
どうしても、
私たちは有名にならないと、
何か偉大な功績を残さないと
歴史に残ることはない。
でも、それなら、
今もがいている私は、
私たちには生きてきた意味はないのか?
それは違う。
歴史に残らなかったとしても、
それぞれがこの世に生を受け、
それぞれの人生を歩むことは、
どれもみんな美しい。
私はそう思った。
そう思うことで
自分の生きる意味を正当化したい気持ちも
多分にあったけれど、
同じように感じてしまう人がいたら、
ささやかでも、綺麗事のようでも、
私の考えが支えになるかもしれないとも思った。
そして時は巡り、およそ12年後。
私は私のその考えに合う言葉に、
コロナ禍で出会った。
次は、『生きてるだけでアート』
という言葉との出会いについて
お話ししたいと思う。