公園の遊具の歴史
公園にある鉄棒や、ブランコ、砂場などが、どのような歴史で入ってきたのかが気になっていろいろ調べてみました。
現在のような遊具が日本に入ってきたのは、幕末から明治初期にかけてのことだそうです。明治政府が日本の西洋化・近代化を進めることを目的とした施策に沿って、寛永寺(上野公園。1873年(明治6年)が開園、1876年(明治9年)完成)や増上寺(芝公園)の境内などが、日本初の公園に指定されています。日本で初めて「公園」という言葉が使われたのも、この時です。園内に遊具が登場するのはもう少し後のことで、当時は遊ぶための器具や遊具はなかったようです。
明治元年(1868年)に出された『佛蘭西陸軍伝習 新兵体術(田辺良輔(雅好)』によると、棒高跳・棒幅跳、木馬(跳び乗り、後方回転下り等を練習)といった訓練項目に混じって、ブランコが使われていたそうです。どうやらブランコは体操(特に器械体操)用の器機であり、少なくとも明治時代は、子供の遊びに特化したものではなかったようです。
ブランコのルーツは宗教儀礼的なものとして紀元前3000年頃にはあったようで、それがギリシャ、中国などをへて平安時代前期には似たものが日本にも伝わっていたようです。
そして、軍隊で訓練目的に使われた遊具は、教育現場にも用いられるようになります。慶應義塾大学の創始者・福澤諭吉は、学問と共に体育の重要性に早くから注目していたそうで、「学業の疲れを散じ、身体の健康を保つ手段として、西洋の学校では体育を重視している」と述べています。
大学の中庭を運動場として、そこにシーソー、ブランコ、鉄棒などの運動遊具を整えていました。明治4年(1871年)、慶応義塾が三田に移転した後も、校庭には同様の体操器具を数多く設置。専門家を雇って、学生にいろいろな運動を教えさせたそうです。
ここまでの話でもわかるように、現在公園にある遊具というのは、子どもの遊ぶための器具ではもともとはなかったということになります。
現在は、遊具による事故の影響もあり公園にある器具は砂場、ブランコ、滑り台くらいになってしまいました。もともと軍隊の訓練目的だったものということから考えると、全身をバランスよく鍛え、感覚器に刺激が入るように考えられてつくられた器具だったはずです。回転系の遊具がなくなってしまったのは非常に残念です。
そして、福沢諭吉が早くから身体教育である体育と学問の両立が必要だということに注目していたということにも驚きです。
公園に沢山の遊具があった意味、慶応大学にブランコがおいてあった意味や歴史を考えると、もう一度現代の身体教育である体育の必要性を考える時期に来ているように思います。
運動と勉強のバランスは当時から重要で、それはきっと現代も変わらないはずです。なぜなら私たちは人間である前に、ヒトであり、動物だから。
参考資料:https://www.shisaku.com/blog/anatomy/post-78.html