人工と自然
意識の世界と都市化
私たちが住む世界は、人の脳で考えられた意識の世界と、それとは違う無意識の世界が存在していて、最近はその意識の世界にかなり引っ張られているように感じる。先日、久しぶりに東京を歩くことがあった。そこには人工物しかなかった。土を一度も見る機会がなかった。全て人工物でつくられたものしかない世界。つまり、私たちが脳で考えた、人間にとって都合のいい脳化された社会。その象徴が都市である。
都会のオフィスビルの中にいれば、蛍光灯の光の下で仕事をし、同じ明るさにいて、太陽の動きを感じないまま一日を過ごす。床は平らで全部同じ硬さ、感覚を排除して統制しようとする。そして感覚の出番をなくす。
意識の世界には自然がない。つまり都市というのは不自然な世界。
銀座や六本木の道に石は落ちていない。そんな余計で不自然なものがあれば片づけられてししまう。あるのは人が考えた意味のある人工物。意味のないものや不自然なものは全て排除される。
自然を守ろうとして公園などをつくって木や植物を植えたところで、それは自然ではなく、人の脳で考えてつくられた不自然なものに過ぎない。
河原には石が自然と落ちている。それを不自然とは思わない。もし河原の石がオフィスの自分の机の上にあればきっとそれは排除される。なぜならそれは自分にとって意味のないものだからだ。自分のオフィスの机に河原の石が落ちていてもそれを意味のあるものとは思わない。
人工がダメだと言っているわけではないが、バランスが悪いとは思っている。人工と自然を両極で捉えるなら、意識と無意識を両極で捉えるなら、今の時代はバランスが人工の方に寄りすぎている。本来の人間にとって左右のバランスの調度いい位置があるのではないかと思う。
きっとコロナ期間にキャンプが流行ったことや、田舎への移住が進んだ一つに、感覚的なものが失われ、人としてのバランスを崩したことを無意識に感じとった人たちが動いたんだろうと個人的には思っている。
子どもは特に感覚的な動物に近いものだと思う。
だからこそ、普段の生活が人工物にまみれているなら、自然に触れる機会を設けた方がいいと思う。
私たちの脳で考えられた都合のいい世界にどっぷりつかっていると、生物としてのバランスを失った状態になるような気がする。そして、意味のないものは認めない、排除する、見えないものは無いものとし、時短・効率化、コストパフォーマンスだけを重視する。見える化してできるだけわかりやすくする世界に自らの思考もどんどん引っ張られてしまう。
いつの時代かまた、自然の方にバランスの比重がおかれ、意味のないものも認め、目に見えないものを感じ取り、時間をかけ、時間に余裕を持ち、非効率的なことも受け入れる、そんな世の中を子どもたちに感じさせてあげたい。久しぶりに感じた思いを文章にしてみました。