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第24話 フィランソロピー

「今日は、僕の話をしてみようと思うんだけど……いいかな?」
「うん、アルトの話は私も聞いてみたいよ」
「あまり面白い話ではないんだけど、僕も自分と向き合わなきゃって、思ってさ」

 僕は、僕の思い出を、家族のことを話し始めた。
 リコは、僕の隣でベンチに座りながら、少し首を傾げて僕のことを見つめ、聞いてくれている。



 僕の家族は、お母さん、お父さん、2つ下の妹の珀愛《ハクア》の4人家族だった。珀愛は、産まれてすぐに亡くなってしまったみたいなんだけど。僕の物心がつく前だったから詳しいことは知らない、存在だけを知ってる、そんな感じだ。
 僕の家族は、前に話したかもしれないけど、お爺ちゃんと同じようにお助け精神を大事にしているような家族だったんだ。もしかしたら、珀愛のことも関係していたのかもしれない。2人とも珀愛の写真をいつも持っていたから。
 お母さんも、お父さんも、仕事でもプライベートでも、慈善活動を、お助け精神を大事にしていた。
 地域のゴミ拾いや古着を集めたりとかのリサイクル事業、難病の子の支援とか、僕は何か色々してるんだなぁと小さい頃は他人事のように感じていた。
 その頃の僕には、仕事と趣味と慈善活動の違いも分からなかったし、多分仕事の延長のように捉えていたと思う。
 僕はというと、そんな両親とはかけ離れていて、自分中心の生活を送っていた。ゲームが大好きだったし、慈善活動の手伝いなんて、たまに連れてかれたりはあったけど僕は無関心だった。
 友達と遊んだり、ゲームに熱中するのが大好きだった、お母さんもお父さんもそんな僕を怒るでもなく、自由に尊重して育ててくれてたんだと思う。きっと、自分たちの価値観を押し付けようとするのではなく、僕のやりたいようにやらせてみて見守ってこうとしてくれていたんだと思う。
 そんな両親に僕は子供ながらに寂しさを感じてしまっていた。みんなに優しいお母さんとお父さん、嫉妬してしまっていたのかもしれない。
 友達と話す娯楽中心の休日の過ごし方とは僕の家はズレていた。違和感を疎外感を感じてしまっていたのかもしれない。
 段々と僕は放置されてると思ってしまってたんだ。
 お母さんとお父さんは、慈善活動も僕の事も妥協なく向き合ってくれていたと思うのに。
 だから、お母さんとお父さんのことについても最初は無関心になろうとしていたのかもしれない、あまり向き合わないように、自分の中で都合のいい虚構に寄り添っていくように。

 そんな中、僕の中で転機があった。小学1年生の頃、多分難病の子供たちの集まりに連れて行かれたことがあった。
 おそらく、お母さんとお父さんは手伝いのような、ボランティアのような感じだったんだと思う。
 僕みたいに連れてこられてた子もいたし、でも、おそらく何らかの病気を抱えているような子たちがほとんどだったと思う。
 ベビーカーなどの乗り物に乗ってる子たちも参加しながら、その日は、運動会だって、ダンスやパン食い競争みたいなのや障害物競争みたいなのを、子供たちや親子でやっていた。
 僕もたまに参加させられたり、隅っこでゲームをしたりしていた。
 周りを見ながら、子供ながらに自分と少し違うと感じる子供たちに僕は違和感というか怖いとさえ思っていたくらいだった。
 自分と変わらないくらいの年齢だって言われたけど、ずっと下の年齢にしか見えないような子、管がついてる子、落ち着きのない子もいた。
 自分では初めて見る、体感する、テレビとかで見たことはあっても、初めて直に触れ合った、言葉にできないモヤモヤをナニカの違和感を抱えてソワソワしていたんだと思う。
 そんな中、子供たちの中で誕生日の子がいたようでみんなでお祝いをしていた。
 僕の中の誕生日は自分が主役でいられる、欲しいものもワガママもある程度許容してもらえる、そんな特別な日だと思っていた。
 誕生日を祝われた子は、もちろん主役で嬉しそうにしていた。
 ずっとしきりに体を揺らしているその子がプレゼントを渡された時、お母さんに言ったことが僕の脳裏に焼き付いている。

「お母さん、産んでくれてありがとう」

 普通の言葉なのかもしれない。その時、僕がその言葉に込められた意味をどれほど理解できてたかは分からない。
 その子のお母さんはその子に抱きついてずっと泣いていた。
 僕のお母さんとお父さんも、周りにいた人たちも涙を目に浮かべていた。
 僕はその頃から、ゲームをそんなにしなくなった気がする。ヒトをよく見るようになったんだ。

 もう一つ、お母さんとお父さんに連れてってもらったことで、脳裏に焼き付いてる思い出がある。
 お母さんとお父さんは、ピクニックに行く予定の途中で、少し会う用事があるからちょっと寄らせてと、僕は近くで待っててねと頼まれて、病院に向かった。
 お母さんとお父さんの共通の友人なのか、何かお世話になった人なのか、その人はタケさんと言う名前でお母さんたちより少し歳はいっていそうだった。
 多分重い病気だったんだと思う。癌だったのかもしれない。点滴や何なのか、管がいくつか出ていた記憶がある。
 お父さんたちは、どこかに行く話をずっとしていた。
 多分、旅行を計画していたんだと思う。
 お医者さんや看護師さんとか、他にも医療従事者なのか、全部で10人くらい集まって喋っていた。
 タケさんは、ずっと、「迷惑かけたくないし、こんなにしてもらって悪いけど大丈夫だ」って、お父さんに言ってた。
 僕も子供ながら、起き上がるのもやっとに見えるタケさんが旅行に行けるとは到底思えなかった。
 お父さんは、真剣な表情でタケさんと話していた。

「最後はタケさんが決めることですし、私たちは寄り添うことしかできない。今を生きれているのか、覚悟を持つのか、後悔がないのか、迷惑なんてものは無視してください」

 子供ながらに、タケさんは、もう死が近いんだと見て感じていた。でも、お父さんの言葉を聞いた時、タケさんの表情は明るくなったような、生気が宿ったようなそんなふうに僕には見えたんだ。

「お前は変わらないなぁ……俺の最後のわがままに付き合わせていいのか……」

 お父さんとお母さんは、とても優しい笑顔をタケさんに向けていた。
 タケさんとの約束を果たすことがどれほど大掛かりなものだったのか、僕には分からない。
 寄付金みたいなのも募ってた気がするし、僕も一緒に手伝っていた記憶がある。今みたいにまだクラウドファンディングとかもなかったと思うし。
 結局いつ行ったのか、成功したのか、僕には分からない。多分その時お爺ちゃんと一緒に僕は留守番をしてたと思うから。
 僕は、正直その時はタケさんとの出来事をあまり深くは考えていなかった。でも今思えば、お父さんの言葉でナニカが変わった、動き出した、そんな感じを受けてたと思う。
 だってきっとあの時から、僕はより両親を尊敬するようになってた、憧れるようになってたんだから。

 それと、前に話したかもしれないけど、僕は子供の時お爺ちゃんとよくお助けごっこをしていたんだ。
 もちろん、慈善活動なんて言えるようなことは全然できていなかった。
 でも、僕はお助けごっこをしている時は少し嬉しかったんだ、ちょっとでもお父さんやお母さんに近づけているのかなって。
 お爺ちゃんは、そんな僕を見てか、かわいかったのか、僕がよくゲームばっかりしているのを見ていたからか、お爺ちゃんなりに考えてくれたんだろう。
 お助けをバトル形式でやってくれて、ゲームっぽく一緒に楽しんでくれて、続けてやりたくなるように仕組みづけてくれていた。
 だいたいの流れは、公園で遊んで、帰り道にお爺ちゃんがはじまりの合図をくれるんだ。

「よし、アルト、今日も帰り道にお助け勝負じゃ」
「うん、また、早くお助けを見つけたり、助ける方法を見つけたり、多い方が勝ちだよ!」

 帰り道、僕は行動力で、お爺ちゃんは年の功で、お助けをしていった。ほとんどは協働して行ってたようなもんなんだけど。

 僕はそのお助けバトルをしたくて、小学校3年生くらいからお爺ちゃんの家に行くことが増えていった。
 お爺ちゃんの家は歩いて行ける距離だったし。
 友達は、お助けごっこなんてしてくれなかったから、ゲーム中心の生活でなくなると共に、僕の遊び場も変わっていったんだ。
 ある時、お爺ちゃんの家にいた時、隣の高橋さんが遊びにきていた。お爺ちゃんと同じくらいのお婆ちゃんだ。
 高橋さんは、なかなか孫が遊びにきてくれないから、寂しいのよねぇと愚痴ってたんだ。
 僕はそれを聞いて、寂しい時は僕がお孫さんの代わりになれるかなと高橋さんに提案してみたんだ。
 高橋さんは、嬉しそうに承諾して、僕がいる時に来てくれることが増えて、遊んだり喋ったりして、とても喜んでくれた。
 それは、お孫さんの代わりになれてたのか、ナニカを埋められていたのか、社交辞令だったのかは分からない。
 でも、僕は、高橋さんの笑顔を見て、自分でも自信がついたし、お母さんやお父さんにまた少し近づけているのかなって気もして嬉しかった。

 お父さんやお母さんが、誇れるような息子になれてきたのかなって。
 自分の名前に恥じない息子になれてきているのかなって。

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