2022.03 関ケ原古戦場を歩く
夏草や兵どもが夢の跡
松尾芭蕉が平泉で詠んだとされる有名な句である。解説するまでもないことだが、平泉は奥州藤原氏が栄華を極めた地で、源義経が兄の頼朝に追われて行き着いた最期の場所である。
芭蕉が訪ねたのはそれから五百年ののちのことで、往時の痕跡はなく、青々とした夏草が生い茂るばかりであった。その風景を見て移り変わる人の世の儚さや虚しさを表したものと言われている。
昨年の11月に関ケ原に立ったときに、口をついて出たのがこの句だった。夏草の生い茂る季節ではなかったが、刈り入れの終わった田地が目の前に広がっていた。
新型コロナウイルスの第5波が落ち着き、オミクロン株の影もない時期である。好天に恵まれたこともあって、午前中の早い時間にもかかわらず多くの人出で賑わっていた。
ここには城のようなこの場所を象徴する建造物などはない。農地のあちらこちらに戦国大名たちが布陣した陣地跡を示す案内板が立つばかりである。
訪れる観光客や歴史ファンはそれぞれ思い入れのある武将たちの陣地跡に行き、古戦場に目を向ける。武将の心境に思いを馳せ、運命を左右した判断や無念を想像する。「天下分け目」に賭けたロマンが、現地に向かうモチベーションなのかもしれない。
この日は「クマ出没注意」の立札を横目に竹やぶを抜けて東軍の黒田長政、竹中重門の陣地跡に立つ。小高い丘の中腹に、案内板のほか開戦の狼煙を上げた烽火場の碑がある。
長政と重門、それぞれの先代は豊臣秀吉の出世物語には欠かせぬ「二兵衛」である。2人はこの戦いにどんな思いを抱いていたか。
関ケ原は重門の領地のうちにあり、重門は合戦ならば先鋒を務める戦国の慣例がある。重門の兵は二百に満たないことから、古くから家同士のつき合いがある長政との合同軍となった。
西軍側では石田三成の陣地に向かった。前線に島左近の陣地があり、笹尾山のふもとに二重の馬防柵。斜面を登った先にある狭い平地が三成の陣地跡である。
この場所からは戦場が一望できる。正面には松尾山、左手には松尾山を見下ろす南宮山。三成はどんな感情でこの二つの山と隣に位置した島津陣地をみつめただろう。
6年前に訪れたときのことである。「関ケ原町歴史民俗資料館」に立ち寄った。この資料館は、現在は「岐阜関ケ原古戦場記念館」として新しく建て替えられている。
資料館で入館料を払っていると、入り口から初老の男性が人を連れて入ってきた。
「館長さんはいますか」
押しの強さがあり、町長か教育長か、もしくは地元の名士か、などと推量する。
「いま出かけています」ともぎりの女性が答えた。すると、
「こちらは石田三成さんの子孫の方です」
と男性は連れの人を紹介した。これには驚いた。四百年も時間が巻き戻ったかのようだった。失礼がない程度に盗み見ると、中年男性と奥さんらしき女性。物静かな佇まいだ。
三成には関ケ原の合戦当時に三人の男子がいた。長男の重家と三男の佐吉は出家して僧となり、重家は石田家の菩提を弔った。
次男の重成は豊臣秀頼の小姓であったが、同じく小姓の津軽信建の手引きで津軽に逃れた。信建は津軽家の嫡男であり、重成は名を杉山源吾と改めて、のちに津軽家の家老職を務めた。この次男の子孫だろうか。
コロナ禍では、苦肉の策で旅行会社はオンラインツアーなるプランを発売していたが、こんなサプライズはパソコンの前にいては得られない。出会いや発見は現地まで足を運んでこその醍醐味である。
芭蕉の句も、書物を読むことや人から聞いた話だけでは生まれなかっただろう。