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2024.8 花束の記憶

 シングルマザーのあの人も、将来を期待されたあの若者も、同世代のおじさんも、職場を去る際には大きな花束を贈られた。
 つい最近、社内では来月の退職予定者が発表された。今年の春に降格になり、それが彼には耐えがたい屈辱だったのだろう。彼にも花束が用意されるはずだ。
 
 私はいままでに退職の機会がなく、であるから花束をもらった経験がない。ふと思うのは、あの片手で抱えきれない大きな花束は、同僚たちからのねぎらいは素直に嬉しくはあっても、持て余してしまうのだろうなと推測してしまう。
 車通勤なので持ち帰りには困らないが、これが公共交通機関を使う人ならちょっとした荷物になるし、寄り道もままならない。家に帰っても、それだけの花束が入る花瓶はどこを探してもないし、だからといってすぐ捨ててしまっては同僚たちの気持ちが台無しだ。
 
 職場であった数年前の記憶だが、産休に入る女性にお祝いと花束が贈られた。お祝いや花束は仲の良い同僚が有志に呼び掛けて用意した。
 そのとき異を唱えた人がいた。「生まれてから渡すのならわかるが、出生前にお祝いを渡すなんておかしい。賛同しない」と呼び掛けた同僚に返信した。
 一理あるがそこまで言わなくてもという主張で、同僚の仲間を思う気持ちが先走りした感は否めなかった。
 異を唱えた人に共感はしたが、私自身は有志の一人になった。理屈の正しさばかりが正義じゃない。この場合は仲間を思いやる健気な気持ちに美しさを感じたからだった。
 
 花束は仕事や人生を頑張ったご褒美に贈られるものと思っていたが、最近ではこれから頑張る人へのエールとしての意味もあるようだ。

 今夏に盛況のうちに行われたパリオリンピック。出発前に大学や企業、自治体に関係する代表選手たちの壮行会が各所であった。テレビニュースや新聞記事を見ると壇上に並ぶ選手たちの多くは花束を手にしていた。この場合の花束は出場するご褒美ではなく、活躍を期待していますというエールだろう。
 世界の強豪と戦う本番の競技では、苦しい場面が続くだろう。ここ一番で踏みとどまれるかどうかは、積み重ねた練習の厳しさや周囲の期待や励まし、代表を争ったライバルたちの涙とともに、赤や橙、黄色の彩り、心地よい香り、腕に抱えた確かな花束の記憶も、奮い立つ糧になるだろうと思っている。帰国後の記者会見や報告会で、そう語る選手がいたらいいなと思っている。

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